憲法は19日に紹介したとおり、国会制度は、国会で法案内容に関する議論が終われば、裁決する前提で成り立っています。
後で最高裁で憲法違反が認定されれば、違反法律を推進した方が次の選挙で政治責任を問われるか憲法改正に進むのが、国民主権・立憲政治の仕組みであって、違反かどうかの意見を言い、その法案自体に反対しておくのは、次の選挙のために重要ですが、法案採決自体を拒否する権利が生まれる訳ではありません・・違反だと思うことを理由に裁決拒否するのは憲法違反の論理・・無理筋です。
今回の衆議院裁決に対して、国民の理解を得られていないと言う宣伝が大々的に行なわれています。
国民の理解とは何でしょうか・誰が決めるのでしょうか?
政治家の仕事は支持者を維持し更にその周辺に広げるために、自分(党)の立場の理解を得ることであって、自分の支持者と意見が一致し、更に自分の意見に共鳴者が増えれば、支持者が拡大する関係です。
この支持の広がりに手応えがあれば、それを意思表明すれば足りるのであって、与党政治家も同じ関係ですから、野党が与党の内部支持関係の広がり・縮小に付いて「国民の理解が得られていない」と言う必要も断定する資格もありません。
各政党が内部情勢分析をする範囲のことです。
ここで言う「国民」とは誰なのかですが、左翼系は「市民」集会「国民」集会「国民の切実な声を無視するな!」などと、如何にも自分が国民多数の代表であるかのように「国民」「市民」名を多用する傾向がありますが、国民多数を代表しているのは論理的に言って政権与党であって野党は少数者の代表でしかありません。
論理的には「国民の理解を得られていない」とは、多数国民の理解を意味しているべきでしょうから、与党支持層が法案を支持していないと言う意味になりますが、与党内の内情を野党が断定する権利も資格もないでしょう。
ちなみに、http://ja.uncyclopedia.info/wikiには、国民の理解」に関する秀逸な引用文が記載されています。
マスコミや政治家が勝手に自分の党派を「国民」と名乗っているだけと言うような定義です。
しかも「理解」の有無など誰も分らないので、勝手に「理解を得た」とか「理解を得られない」と相互に濫発している関係らしいです。
要は自分の意見の正しさを同義反復しているだけで「国民」と言うとみんなが自分の正しさを確認しているようなイメージを強調出来るだけらしいです。
法律相談者が、「皆が言っている」言うだけでは弁護士は滅多に信用しませんが、最近は「国民の理解」と言うのが代わりにはやっていると言うことでしょう。
ちなみに16日の国会決議では与野党ともに造反がなかったと報道されています。
むしろ民主党の方こそ造反スレスレ行為があったようで、調査すると言われています。
結果から見ると党の態度が「理解されていない」のは民主党支持者の方ではないかと推定されます。
国民の理解と言えば選挙結果こそが、憲法が想定している公式理解ではないでしょうか?
ソモソモ集団自衛権の閣議決定が昨年夏で、これに対して反対運動が熾烈に行なわれた後の昨年末の衆議院選挙がおこなれていますので、今は選挙後まだ半年あまりしか立っていません。
これに対して、昨年の選挙はワンイッシューで選挙したのではないから集団自衛権に付いて信任を得たことにならないと言う意見も尤もらしく宣伝されています。
こんなことを言い出したら、1国会あるいは衆議院の選挙から解散までに何十〜百本もの法案が提出されていますが、与野党合意がない法案は全て法律ごとに国民投票しないと何の法律も議決出来ない理屈になります。
代議制民主主義とは、選挙民がどう言う理由(これから行なう政策の指示不支持だけではなく、過去数年の実績・・経済・外交政策や就職で世話になったとか、親の知り合いとかいろんな理由の複合体で良いのです)で、選挙区の代議士に投票したかにかかわらず、総合的に任期中の立法行為を一任する制度であって、個別法律ごとの委任とは違います。
「ワンイッシュー選挙ではなかったから国民の理解を得ていない」と言うのは、選挙で負けた方の詭弁と言うか、代議制民主主義・憲法制度を否定する意見に外なりません。
憲法違反を主張する勢力が、憲法制度を無視する主張をしていることになります。
代表と代理の違いに付いては、12/11/02「権限濫用と代表行為」前後の連載で書いたことがあります。