ヘイトスピーチ禁止論10(表現態様?)

道義の中で法で強制すべきものだけが「法」になっているのが普通の理解ですが、その理解で言えば、法に昇格していなくとも正しいことは正しいのだから大きな声で言っても良さそうなものです。
「暴力団は怖いね」とか「あの集団怖いので近づかないようにしましょう」と言うのが何故いけないかです。
ゴミ捨て禁止の法がなくとも、ゴミを道路に捨てているのを見たら注意するのが悪いことではないでしょう。
ましてしょっ中道路にゴミを捨てたり、痰を吐きながら歩く人見たら、そんな人と付き合いたくないでしょう。
「あんな人とは付きあいたくないね!」と大きな声で言えない場合としては、道義と言われている中には社会の価値観が急激に変わった結果、もはや道義として通用していないものが旧弊として残っている場合が考えられます。
既に現在の価値観で認められなくなった旧弊にこだわる人が、これを道義と称しているだけで、(まだそんなこと言ってるの?と思っても)誰も正面から反対していないだけの場合もあるでしょう。
旧弊な意見が大きな声で言えないのは、ソモソモ世論の支持を受けていないからであって、法で禁止しなくとも自然に消えて行きます。
人権重視のアメリカなどでヘイトスピーチに対する法的規制がないのは、意見の正邪は言論市場で決めて行くべきだと言う意識が強いからです。
あるいは、相手が怖そうだとか相手に嫌われたくないから黙っているとかの理由で、相手が悪いことをしていても注意出来ないこともありますので、こう言う場合は積極的に言論発表を援助すべきです。
権力批判も同根ですが、今は「えせ同和」に始まって、弱者を名乗れば強者に転じる・・権力批判に名を借りた悪乗り・濫用が増え過ぎた点が問題になっています。
親がパチンコに通ったりファミレスなどで外食しているのに、子供の給食費や旅行積立金などを学校に納付しないので、・・請求すると子供が可哀相だ・・納付しなくとも旅行参加させろなどと主張する意見です。
国際的に言えば、従来価値観から言えば、ギリシャ危機=困窮している国民への同情がもっと集まっても良いのですが、(ドイツやIMF的緊縮策の処方箋には懐疑的な点では私も同感ですが・・それとは別に)同情が広がり難いのは、こうした弱者?の開き直りの広がり・横行にうんざりしている人が世界的に増えているからです。
法で禁止し、道徳的に抑制する必要がある場合とは、批判論には道義があって世論支持があるものの、世論支持を背景に批判活動が行き過ぎた結果、特定民族・集団の受ける不利益が一定限度を超えて迫害されるような事態に至っている場合ではないでしょうか?
ある家族の一員が多くの村人を殺した場合、その家族が謝るべきと言う気持ちは現在も通用している正しい道義だとしても、吊るし上げて断罪までするのは「行き過ぎ」と言う程度が現在の常識でしょうか。
「村・国から出て行け」と出て行かざるを得ないように家の前で毎日騒ぐのは行き過ぎの一種と思われます。
大事件があった(例えば◯◯国出身の留学生がアメリカで銃乱射事件を起こした)ときに、その国の元首が遺憾の意を表明したり陳謝(またはこれに類する発言をし、お見舞いを申し上げるなど)するのが普通ですから、今でも(自分の息子が殺人行為をしても自分が犯人ではないから)「俺は関係がない」と言えないのが、現在も世界中で普遍的価値観であるといえるのではないでしょうか?
何か事件・事故があった場合、集団的・・民族的陳謝やお見舞いが必要なのが現在でも正しい道義であるとするならば、謝らない人を名誉毀損にならない程度プラス行き過ぎにならない程度で非難するのは、「言論の自由の範囲でやっているだけだ」と言う理屈になるでしょう。
せいぜい許されるのは、「誠意を持って謝って欲しいよ!」と言う程度であって、謝らないからと言って、名誉毀損行為が許されないだけではなく、結果的に民族迫害にならないように自粛すること・・当然のことながら暴力行為に至ることは犯罪として許されません。
結局のところヘイトスピーチ論は、ある集団に道徳違反があった場合に相応の批判は許されるが、相手が悪いからと言って名誉毀損・侮辱・迫害になるほどの過剰表現はいけない(聞くに耐えないような下品・露骨な表現するな)とか、暴力が行けないと言う常識の問題に帰するように思われます。
名誉毀損や侮辱行為は、それぞれ刑事罰や民事損害賠償の対象になります。
その程度の抑止力で充分であって、これに該当しない程度の批判・表現行為まで(将来迫害になる危険があるからと前もって表現を)規制するのは、特定勢力をバックにした組織による言論弾圧リスクの方が高くなります。
百田氏のマスコミ批判が袋だたきにあっていますが、個人の意見表明が何故行けないか?逆にマスコミの言論弾圧事件と言うべきでしょう。
アメリカ共和党の大統領候補に立候補しているのトランプ氏が、不法移民取り締まり強化を訴えて物議をかもしていますが、その程度は・・言論で勝負すべきことです。
不法移民問題をどうするかは政治の重要争点ですから、これを論点にする事自体を批判するのは一種の言論弾圧とも言えますから・・。
常識を法で強制するのは、無理があります。
過激派のデモ行進は自然に消えて行ったように、常識の範囲を超える過激な言論は、社会の支持を受けられずに淘汰されて行くでしょうから、それに任せるべきです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC