日弁連と政治6(弁護士自治破壊リスク3)

、加入脱退自由でも労組を例にして硬直すると問題があることを書いてきましたが、強制加入団体の弁護士会が、特定思想に基づく運動するようになると脱退・逃げる自由すらもないのでさらに弊害が大きくなります。
弁護士会は強制加入団体と言って、弁護士をやるからには道府県ごとに1つしかない(東京に限り3つの会がありますが・・)会に加入しないと弁護士の仕事を出来ないのですから、思想や心情・意見が違うからと言って、弁護士をやめない限り脱退の自由がありません。
教師や医師は教組や医師会に加入しなくとも教師や医師を続けられますが、弁護士にはその自由すらないのです。
退会して弁護士業をすると刑事処罰されます。

弁護士法
昭和24・6・10・法律205号  

弁護士の登録)
第8条 弁護士となるには、日本弁護士連合会に備えた弁護士名簿に登録されなければならない。
非弁護士の法律事務の取扱い等の禁止)
第七十二条  弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、異議申立て、再審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない。ただし、この法律又は他の法律に別段の定めがある場合は、この限りでない。
(非弁護士との提携等の罪)
第七十七条  次の各号のいずれかに該当する者は、二年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。
一  第二十七条(第三十条の二十一において準用する場合を含む。)の規定に違反した者
二  第二十八条(第三十条の二十一において準用する場合を含む。)の規定に違反した者
三  第七十二条の規定に違反した者
四  第七十三条の規定に違反した者

弁護士会の組織活動が自分の意見にあわないときには、弁護士会の活動に参加しなければ良いのだからそれでいいじゃないかと言う人もいるでしょう。
大学自治会が革マル派・中核派などに占拠されていても、イヤならば自治会活動に無縁でいれば良いと言う消極的抵抗と同じやり方の推奨でしょうか?
親としては息子がまじめに勉強してれば良いのと同じで、弁護士会活動しなくとも受任事件さえまじめにこなしていれば良いじゃないかと言う動きです。
弁護士会と政治運動に関する高裁判例を2014-10-30「弁護士会の政治活動4」で紹介しました。
日弁連が自治権の濫用またはすれすれの行為をしても、裁判例としては大幅な逸脱がない限り自治権に介入出来ないと言う抑制的判断が続くと思われます。
「非政治組織(日弁連)と政治6」Mar 28, 2015で書いたとおり、弁護士会に自治権があろうとなかろうと日本の政府はもともとそう言うものです。
日本の歴史と西洋や中国の歴史とは違いますので、西洋や中国の歴史を持って来てすぐに弾圧がどうのと言う左翼文化人的議論は、日本の歴史実態とはあっていません。
こう言う日本の政府の成り立ちを考えると、どこまで許されるかを(本来内部自治で決めるべきことですから)裁判(国家権力)で白黒つけるのは無理と思われれます。
取材に応じた台湾原住民の意向とは違った形で放映されたというNHK相手の裁判に関連して少し書きましたが、何でも裁判に持ち込んでそこで白黒を付けようとするのは、無理があります。
2月21日に書いたように、その限界は自分達で決めて行くべきであって、裁判所が原則として口出しするべきことではありません。

労組5と労働審判制度1

労使紛争に関して従来型労働組合関与による大型手続が社会の需要に対応出来なくなって来た・・機能しなくなっていたので、平成18年4月から新たな解決方法である労働審判制度が始まりました。
労働事件の判決まで何年もかかるので、本案前の仮処分制度利用がはやりましたが、迅速処理を前提とする仮処分も事実上丁寧な審理が原則になって来て、仮処分の本案化の問題が言われるようになりました。
仮処分と言いながら、強制力があって、(断行型・・仮の地位を定める仮処分・・仮に給与を払えと命令すると)後で結論が変わって労働者敗訴になっても、生活費に使ってしまっているので事実上取り返しのつかない損害が起きてしまいます。
そこで相手側の言い分を聞かないで一方的な命令を出すのは危険過ぎるとなって、本案同様に相手の反論を求め、反証を出させるようになって来た結果、本案訴訟と時間軸・訴訟の仕方がほぼ同様になってしまったのです。

労働審判法
(平成十六年五月十二日法律第四十五号)
(目的)
第一条  この法律は、労働契約の存否その他の労働関係に関する事項について個々の労働者と事業主との間に生じた民事に関する紛争(以下「個別労働関係民事紛争」という。)に関し、裁判所において、裁判官及び労働関係に関する専門的な知識経験を有する者で組織する委員会が、当事者の申立てにより、事件を審理し、調停の成立による解決の見込みがある場合にはこれを試み、その解決に至らない場合には、労働審判(個別労働関係民事紛争について当事者間の権利関係を踏まえつつ事案の実情に即した解決をするために必要な審判をいう。以下同じ。)を行う手続(以下「労働審判手続」という。)を設けることにより、紛争の実情に即した迅速、適正かつ実効的な解決を図ることを目的とする。

(迅速な手続)
第十五条  労働審判委員会は、速やかに、当事者の陳述を聴いて争点及び証拠の整理をしなければならない。
2  労働審判手続においては、特別の事情がある場合を除き、三回以内の期日において、審理を終結しなければならない。

この制度では、申し立て後数ヶ月での解決が基本ですから、非常に簡易化されました。
4〜5年ほど前に経験した事件では、(労働組合のバックアップどころか)弁護士さえ代理に立てないで個人名での申し立てでした。
労組系の弁護活動の経験のない私自身も、依頼を受けて企業側や労働側での受任・交渉等が多くなり始めています。
私が今担当しているアルバイト?運転手の解雇無効事件も、労働審判制度を前提にした弁護士同士の交渉ですが、この種事件に労働組合の出る幕がありません。
非正規労働をなくせと言うスローガンよりは、その解雇が許されるかなど、イジメやサービス残業など具体的労働条件を巡る争いのバックアップの具体的行動が必要です。
労働組合を通さなくとも直接弁護士にアクセス出来るし、(組織的長期支援がなくとも)一般弁護士も簡単に事件を始められるので、労働組合の後ろ盾が不要になって来たのです。
この制度開始の結果、労働組合の地盤低下が始まったのではなく、型通りの闘争や政治活動中心の運動では、多種多様化してきつつある労働者の個別利益擁護が出来なくなって来たことが先にあったのです。
見かねて新たな制度を創設してみたところ、これが需要にあっていたので、大ヒットしたと言うべきでしょう。
以下は、2015年3月28日現在ネット検索した記事の引用です。
これを見ても労組の応援をバックにした従来型大型訴訟は、個々の労働者の権利擁護に役立っていなかったことが分ります。

「労働審判制度の創設と施行に向けた課題

季刊・労働者の権利256号(2004年10月発行)から転載
執筆担当 弁護士鵜飼良昭
 「② 労働審判制度誕生の要因

 「この労働審判制度は、労働側、経営側、裁判所間の越えがたいと見られた利害や意見の対立を止揚したものといえる。我が国では、西欧における労働参審制の歴史に比較して、世論の関心はまだまだ低く議論の蓄積も少ない。それは我が国社会の労働や法に対する価値基準の低さの反映でもある。このような状況下で、何故今回のコンセンサスが可能となったのであろうか。少なくともその背景として、この10数年来個別労働紛争が増大する一方で、企業内の労使による解決能力が低下し、多くの紛争が解決の手段を与えられず潜在化しているという認識や危機感の共通化があげられるであろう。経済のグローバル化や労働力の流動化等によって、雇用社会は多様な労働者で構成されるようになり、利害の対立や紛争が深刻なものとなっている。旧来型のシステムや企業内でしか通用しない慣行やルールによる対応は既に限界に達している。

 この間、個別労働紛争の増大に対応して、地方労働局の相談・あっせん等の紛争解決システムも設けられてはきた。しかしこれらはいずれも、任意的調整的な解決機能しか持たない。どんなに法違反が明白で悪質なケースでも、一方当事者がノーと言えば強制はできないのである。従って、法の適正かつ実効的な実現を図るためには、紛争解決の要である裁判による解決の途が開かれなければならない。しかし我が国の労働裁判は3000件程度で、この10年間で3倍に増えたとはいっても、英独仏等の数十万に比して桁外れに少ない。この間、多くの労働者は泣き寝入りを強いられており、それは長い物には巻かれろという退嬰的な意識を社会に沈潜化させる源となっている。国民の大半によって構成されている雇用社会に、普遍的な法を行き渡らせることこそが、人々の自立を促し、我が国社会の活力やモラルを回復させる途であろう。この様な認識が、「自由と公正を核とする法が、あまねく国家、社会に浸透し、国民の日常生活において息づくように」という司法制度改革の理念を受けて、労働審判制度を誕生させた大きな要因だということができる。」

労組4と図式論の限界2(非正規雇用1)

4月2日まで書いて来たように労働者のニーズは多様化しているし、労働者なら意見が同じと言う時代ではありません。
国民には、組合活動=団体行動・政治闘争と言うイメージが定着してしまっているので、イジメや病気・介護等で身近で困ったことは組合員でも組合に相談しないで、上司に相談するのが普通になっています。
こう言う風潮下にあるからこそ、非正規雇用者の労働条件交渉のための組織すら育たなかったのではないでしょうか?
既存労組がやって来たことと言えば、非正規雇用者は可哀相だ(技術も身に付かないし)これを「少しでもなくせ、減らせ」と言う抽象的運動中心で非正規労働者の個別条件改善にあまり努力して来た(かも知れませんが印象が弱い感じ)ようには見えません。
マスコミ・文化人の議論を見ても「正規がよくて非正規が駄目」と言うレッテル張り(格差を固定化することに熱心?)が基本になっているように見えます。
そんなことよりも正規が非正規かに関わらず社会保険加入を義務づけたり解雇規制(私は現在非正規労働者に対する濫用的解雇を争う事件を受任しているところです)を働かせるなど、非正規と正規の格差をなくす・要は多様な働き方を認めて差別しない方向への努力の方が重要です。
非正規か正規かを強調するのは身分固定化思想の残滓であって、非正規は雇用形態が多様になる利点があるのですが、その代わり技術取得や社会保障や雇用関係の保障が弱い・・この点のカバーをして行く工夫こそ重要です。
雇用形態が非定型化している面での違い(短時間労働の場合引き継ぎの時間ロスがあるなど)があるでしょうが、例えば、それと保険の要不要とは本来関係ないことですが、必要以上に待遇を悪くしている面を是正して行くことが先ず必要です。
身障者をなくせと運動するよりは、身障者も街に出られるようにバリアフリー化を進める・・赤ちゃんを産むなと言うよりは、乳幼児を抱えたまま労働継続出来るようにするなどが重要なのと同じです。
政府の方が逆に保険財政の関係もあって非正規にも各種保険加入義務を認めるなど実質平等化を進めるのに積極的です。
病人、被介護者、身障者が減る方が良いのですが、完全にゼロになる訳がないので、こうした各種弱者の権利性の認識や保護が必要とされているのです。
病人や要介護者を減らすのは良いことですが、それと具体的な病人の保護・・要介護者が何をされても良いと言う訳ではないことが重要です。
労組や文化人・人権派は、無意識の前提として格差を固定した上で、「非正規を減らせ」と言う運動中心の印象です。
自分たちはエリートと言う意識・・階層固定化が好きで、階層分化があってこそ活躍のがあると言う潜在意識によるのではないでしょうか?
政治活動・・仮に非正規雇用者の組合があって、非正規雇用者の正規雇用への転換や非正規雇用の縮小を主張・政治運動して、これが実現すると組織自体が縮小・・なくなる前提になって矛盾してしまいます。
非正規の問題は、非正規のママで(イレギュラーな働き方をしたい人・するしかない人も一定数いる以上は)、如何に内容を良くして行くかこそが重要な視点です。
仮に正規雇用の労働組合が、全員一定年齢ごとの昇進で経営者になれるようにする政治運動をして、これが成功した場合、労働組合が昇進するための学校みたいになってしまって、存在意義がなくなるでしょう。
究極の形・・ソ連型の労働組合が経営する権利があるとなった場合、そこで働く労働者の権利は誰が守るのでしょうか?
非正規雇用に関する議論を見ていると、自分たち正規労働者はエリートでその階層から漏れてしまった(可哀相そうな)非正規労働者を・・全部ではなく「少しばかり自分たちの仲間に入れて上げる」とするものであって、非正規労働者のままでの労働条件改善運動ではありません。
民主党政権の三年したら正規雇用しなければならないと言う法改正はその現れです。
非正規の問題点あるいは非正規雇用にも多様な労働環境整備と言う面で、どう言う効用があるかなどの、政治意見は外野の評論家や政治家に任せるとしても、定型的労働可能な人ばかりではなく、イレギュラーな労働しか出来ない人を弱者階層に追い込んで終わりにするのは間違いです。
先ずは非定型労働形態・・多様な働き方を認知して、非正規雇用の劣悪労働条件改善運動に地道に取り組む姿勢が必要だったのではないでしょうか?
マクドナルドの店長は勤務実態から見て実質管理職ではないと言う判決が世間の注目を集めましたが、政治背景の労使紛争・不当労働行為かどうかのような型通りの争いよりも、実質労働条件改善こそが働く労働者にとって重要になって来ていることが分ります。

 ※東京地方裁判所平成20年1月28日判決(日本マクドナルド事件判決)

プライバシー保護論2

マイナンバー制度その他反対論は、プライバシー保護を主張する人権論者としての反対である以上は、漏洩された被害者のプライバシー問題・・具体的にどう言う被害があってどう言う救済をすべきかを正面から論じるべきであって、業者が困るかどうかの問題ではありません。
4月1日に書いたように具体的被害をイメージし難いために、「◯◯に使われたらどうする」式の不安を煽るのですが、それでは議論が先に行かないと自覚しているのかも知れませんが、いつの間にか実際の関心はベネッセ等情報漏洩企業が如何に困っているかを強調し、公的機関から漏洩すると公的機関の信用に関わる点に議論を移して行く傾向です。
最近のプライバシー論は、プライバシー被害を受けた人の保護の観点からの反対と言うよりは、業者の自衛・公的機関の信用保持のためでもあるかのように「大変なことになるよ」とか、「そんなことが許されるのか?」と業者批判のための議論が中核になっている印象です。
「そんなことが許されるのか」とマスコミに問いつめられると「許されます」「そのくらい大したことがないでしょう』と開きなおり出来ないのが、業者や公的機関の弱いところです。
目的が個人プライバシー保護よりは企業や組織・・新しい分野の生成発展を攻める材料にしているような印象を持つのは私だけでしょうか?
上記は私の印象であって、プロの世界ではもっと緻密な議論をしているのかも知れません・念のため・・。
具体的プライバシー被害を言わずに、「◯◯したら企業が困るだろう」式の論法は、ヤクザがよく使う、恐喝手段の流用っぽい印象です。
新たな技術に対しては、総評華やかなりしころ「昔軍隊今総評」と言う言葉がはやりましたが、これをもじると「昔公害、今プライバシー」・・最近プライバシーと言う攻め口で何でも反対する傾向があることに話題がそれてしまいました。
労働者だからと言って発展することには何でも反対したいとは限らない・・要は何でも反対の超保守傾向の人かどうかの括りしかない時代で、それ以外はテーマごとに是是非で考える人が多いのではないでしょうか?
日本では、労働者階級は何世代も労働者と決まっているのではなく、息子がエリートサラリーマンになったり、エリートの息子が非正規労働者になったり入れ替わりの激しい社会です。
身分社会だったと言われている(これも西洋歴史の日本歴史への図式的当てはめでしかなく、実際には違っていたと書いてきました)江戸時代でも、勝海舟のようにドンドン出世して行きます。
平安時代には、地下人であった武士階層が次第に力を蓄えて天下人になって行き、武家政権成立後も守護大名から戦国大名に入れ替わり、戦乱が治まると下級武士が内部で徐々に力を持つようになるなど、いつも入れ替わりの激しい社会でした。
こう言う社会では階層による固定観念によるのではなく、誰もが社会の主人公と言う意識(乞食も新聞を読んでいて日本社会を憂うる社会)ですから、日本にとってより良い社会にしたいと公平に考えています。
自分の階層利益のために、日本社会を犠牲にして良いと考える人は滅多にいません。
労組問題から話題がずれましたが、上記のように出身階層によって意見が図式的に違うテーマが少くなっているのが普通ですから、戦後長く続いて来た各派代表的審議会の人員構成も修正して行く必要があると思われます。
(防犯カメラ反対・・労組なら犯罪摘発しなくてもよいと言う意見に馴染まないでしょうし、労働者だけがプライバシーに敏感とは言えないでしょう・・ですから、労働者かどうかの区分けで議論する必要がないのです。)
リスクがあるならば、マイナンバー法をやめればいいだろうと言う点では政党(支持者)によって意見が違うでしょうが、既に法が成立している以上、リスクを最小限にして実施して行こうと言う国家意思が決まったことになります。
その実施に向けた準備会合で「そもそも施行に反対だ」と議論をボイコットするのでは、法治国家の市民としての態度ではありません。
すべての場面で組織をバックにした意見ではなく、その人の人格に根ざしたきめ細かな議論が必要な時代がきています。

プライバシー保護論1

防犯カメラに対する反対論も共通ですが、プライバシー権?と言うカテゴリーを使って批判している以上は、プライバシー=個人被害・侵害利益の存在に立脚している筈ですが、個人被害を具体的に主張する論説(私が探せないだけかも?)が見当たりません。
刑事事件で防犯カメラを利用されたことによって、具体的に誰がプライバシー侵害でイヤな思いをしたかの主張がないのです。
情報の大量流出事件はまさに大量であることに意味があるのであって、個々の被害は小さいことがむしろ予想されています。
個人被害が直ぐにはイメージ出来なくとも、オーム真理教のようにどう言う犯罪に利用されるか分らないと言う不安もあるでしょうが、それを言い出したら全ての新たな科学技術・道具はそう言う危険をはらんでいます。
戦闘機であれ爆薬であれ、機関銃であれ、劇薬であれ、エボラ出血熱用の菌を入手しての研究も行われていますが、盗まれて悪用されたらどうするんだと言い出したらきりのない話です。
電話も盗聴されない保障があるのかなどと言い出したら電話も使えません。
マスコミの煽りに乗らずに国民の多くは「その程度のリスクは構わない」と思って電話を気楽に使っているし、コンビニやネット購入でデータ化されるリスクを知っていても買い物をしているのではないでしょうか。
公的機関が強制的に取っている情報とは意味が違うとも言いますが、文化人が強調するほど国民はそれほど気にしない人が大多数(意識が遅れているだけだと言うのでしょうが)だと言う点を書いています。
「もしも住民登録したくなければ自由ですよ、その代わり行政サービスを受けられません」とすれば、ネットで買い物をするときに個人情報を出さないと買えないのと同じことになります。
権力的に収集していると言っても、実質はネット買い物同様に見返りとの兼ね合いで協力している点は同じです。
行政サービスは死活的だから100%自由意思のネット買い物とは本質が違うと言うのでしょうが、あらゆる制度は、見返りとの兼ね合いで国民の支持を受けている点では本質が変わりません。
良い医療を受けるためには、自分の病歴を言った方が良いから言ってるのであって、(これも事実上)強制されているかどうかと関係ないでしょう。
弁護士に何かも説明するのも同じです。
法律上強制納付の年金だって見返りが少ないと報道されれば納付者が減って行くのを見れば、国民は見返りとの均衡をシビアーに考えていることが分ります。
実際住民登録は強制されていると言っても個々人が、事実上好き勝手に届けたり届けなかったりしていることが多いのですが、違反しても刑事罰はなく、行政罰しかありませんし、実際に行政罰を受けた人は滅多にない・・皆無に近いでしょう。
ちなみに科料は刑罰ですが、過料は行政秩序罰(一種の無断駐車料金みたいなもので)であって、刑罰ではありません。

住民基本台帳法
第53条 第22条から第24条まで、第25条又は第30条の46から第30条の48までの規定による届出に関し虚偽の届出(第28条から第30条までの規定による付記を含む。)をした者は、他の法令の規定により刑を科すべき場合を除き、5万円以下の過料に処する。
2 正当な理由がなくて第22条から第24条まで、第25条又は第30条の46から第30条の48までの規定による届出をしない者は、5万円以下の過料に処する。
第54条 前3条の規定による過料についての裁判は、簡易裁判所がする。

在日などの外国人登録制度が廃止されて、住民登録制度に移行中ですが、登録のメリットとデメリットを考えてためらっている外国人も多いようです。
これらの救済のためか知りませんが、関弁連では、各市町村にアンケートして、住民登録のない外国人にも同様の行政サービスを受けられる権利があるのに、これを知らない市町村があると言う意見書を最近読んだばかりです。
ホームレスその他引っ越しても住民登録しないままの人は、自己判断で行政サービスを受けられないデメリットを覚悟の上で、届けないでそのままにしている人タチです。
世界的傾向かも知れませんが、具体的プライバシー被害を言うならまだ分るのですが、「被害があったらどうする!」と言う拡大した不安を煽り過ぎる傾向があるように思われます。
この煽りに対して、誰も反論し難い世論形成が巧妙に行なわれています。
このような煽りに反応する最先端の人かな?自分がまだ何の被害も受けていないのに、「◯◯があったどうしてくれる」と企業を非難するクレーマー?的相談者がタマにいます。
「そんなことを言い出したら[事務所からの帰りに交通事故にあったら困る]と言っているようなものです。」と言って「内容証明を出しようがない」と取り合わないのが普通です。

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