原発問題(専門家の限界)4

一人でも反対の場合、再稼働を認めないと言うときの一人とは、規制委委員の内一人だけなのか、規制委員会委員だけではなく関連学会や現場関係技術者まで含むのかにもよりますが、幅広く委員会外に反対意見があればそれを採用すべきとなれば、どの範囲までの人を加えるかの問題もあります。
国論が大きく割れているテーマでは(何百人もいる関連研究者のうちに反対論者が一人や二人いるのが当然予測出来ますから)反対論者が一人でもいたら再稼働禁止と言う法律が仮にあれば、事実上禁止法を制定したのと同じ効果になってしまいます。
福島原発大被害発生後満4年経過した現在でも、国民総意が即時廃炉、段階的廃止・・古い分は即時廃炉しても新しい分は運転していて寿命が来る都度新設しないで縮小して行く・・その他国論がまとまらず、揺れている状態です。
国論が定まらない状態では、政権も明確な意思表示出来ないのは民主国家運営としてある程度仕方のないことです。
経済運営では国論が定まらなくとも、政権はABC~Xの意見うちどれを採用するかを相当期間内に選択して行くしかありませんが、原発政策は、相稼働を認めなくとも、あるいは廃炉に決めても危険な使用済み燃料棒が即時にこの世からなくなる訳ではありません。
冷却が止まると危険性がある点は、・・急いで廃炉かどうか決めても危険な使用済み済み燃料棒をすぐにどうにか出来る性質のものではないので、国論が揺れている以上は時間軸を多くとって慎重に国論の行方を見定めること自体は妥当であり、優柔不断・・小田原評定的非難に当たりません。
国論が定まらない状態の震災直後に制定された新規制法の基準がより厳しくなったとしても、全面即時禁止法と同様の効果がある「一人でも反対意見があれば再開を許容すべきではない」と言う基準が法制定されているとは到底考えられません。
せいぜい変更あったとしても単なる多数意見(過半数)ではなく、全体の2〜3割以上反対があれば多数意見を採用しない・・危険とするなどの段階的基準設定する程度ではないでしょうか?
(憶測だけではなくこの後で規制委員会設置法の条文を見て行きます)
会社法その他の組織法(身近なところではマンション法など)では、議長の裁量に留まらず、解散その他重大決定は特別多数制度(3分の2以上や5分の4以上など・・マンション法では厳し過ぎて老朽マンションの建て替えが進まないので最近要件緩和されたと言う記憶です)が採用・・法律上強制されていますが、原発規制法に会社法のような明文の規定がない限り、大方の意見によって決めて良いことになるのでしょう。
こう言う法律がない場合に、司法が独断でもっとも厳しい少数意見によるべきだと判断することは許されません。
ですからまさか、(仮処分決定書自体見ていないので分りませんが)こう言う基準で停止命令を出した訳ではないでしょう。

会社法(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(株主総会の決議)
第309条 株主総会の決議は、定款に別段の定めがある場合を除き、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数をもって行う。
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げる株主総会の決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(3分の1以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の3分の2(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない。この場合においては、当該決議の要件に加えて、一定の数以上の株主の賛成を要する旨その他の要件を定款で定めることを妨げない。
以下各号省略

法の明文がない場合にも、実務上効果がはっきりしていない・よく分らないことに関する重要決定事項に付いて、多数の反対意見が噴出すると(賛成者多数の場合でも)直ちに「決」をとらないでもう少し慎重議論しましょうと議長・委員長が引き取ることが多いのですが、これは議長の裁量行為であり、一定の議論を尽くした結果であればその場で議決しても裁量権の濫用にはならないでしょう。

原発問題と統治行為理論(専門家の限界)3

法(国民意思)で決めた基準どおりに委任範囲の基準が策定されているか、運用テストされている否かは、事実認定・・司法分野です。
理論上司法の判断分野であっても、国民総意で許容範囲を決めて行くべき分野・・高度な妥当性判断になって来れば、いわゆる統治行為理論(司法の領域外)がミクロ的に妥当する分野であると思いますが、如何でしょうか?
車製造、製鉄現場の安全基準、エアバッグの製品その他完成品安全基準造りは、ミクロですが、高度過ぎてその基準造りが専門外の人が判断出来ない場合、その道のプロ集団(学会等)にお任せしているのが普通です。
(法は◯◯の基準に適合しなければならないと決めるだけで、その基準は政省令規則等で定めると言う法形式)
後になってみると過去の少数派意見の方が正しいことが分るかも知れないので、少数意見の弾圧は許されませんが、法的責任に関しては事故当時の科学水準で施行していれば後から見ればその水準が間違っていても(後から見て正しかった少数意見に従った行動をしていなくとも)行為者の故意・過失責任を認めないのが基本です。
今回の原発再稼働停止問題は、まだ事故が起きていないのですから、司法はその基準造り段階でその基準の是非について容喙出来るかが問題です。
事故が起きてから、過去の基準判断として、当時のオーソライズされた基準はこうだったと判定し、行為者がこの基準に従って行為したかを判定するのは司法の役割ですし、後講釈は、誰でも出来ると一般に言われているとおりで割合に簡単ですが、現在進行形のある学会や技術集団の術式にかんするABCD〜Xのどれが正しいかの論争に割って入って、司法権がBまたはDが正しいと判断するのは越権です。
意見の分かれる問題について(経済政策に付いて少数エコノミストの意見を採用するかどうかなど)その内どの意見を採用するかは、国民の信任を受けている政権の権限・その代わり結果について政治責任を負いますが、司法権は国民からこの種の選択権限を付与されていません。
専門家の一人でも危険率が高いと言っていれば、もっとも厳しいその数値によるべきだと法(国民の総意)で決まっていれば、規制委の基準よりも危険という意見があるかどうか調べるのは司法の分野でしょう。
原発の津波対策に関して今回の津波程度のリスクがあると主張していた学者がいたのに無視していたと言う批判が事故直後頃にマスコミでありましたが、法が単に「安全確保」と言う目的しか示しておらず、その具体化は政省令に委ねる場合、その意味するところは一人でも最悪事態を主張する意見があれば、この基準によって対処すべきという意味ではなく、多数意見または支配的意見で安全基準を策定すべきだと言う法意に解するべきでしょう。
一人でも反対したら駄目と言う基準を法(国民の総意)が示していると解釈すれば、誰か一人反対すればいろんな商品やサービスの製造販売出来ないと言うことになるので、結果的に何も出来ないでしょうから、事実上の禁止法になります。
建築基準であれ各種産業の労災防止の安全基準であれ、車やバギーやおもちゃや医薬品の製造基準であれ、関係者の一人でも危険性があると主張すれば製造販売が禁止になると言う法意であれば、事実上何も作れなくなるでしょうから、「安全確保」と言うだけの条文の意味は、関連学会や技術者の総合意見によると言う意味に解釈すべきです。
政治(国民総意)が原発設置基準を法定するに際して、各種安全に関する各種法律同様に「安全の確保を図る」程度の条文であったとすれば、基準策定当時の多数関係者が考える科学水準で決めたことに瑕疵はありません。
そうとすれば一人でも、大規模津波を想定する研究者がいたのに・・・と言って、原発の安全基準造りをマスコミが批判するのは間違っています。
今回の新たな設置基準が、福島の大被害を受けた結果基準をもっと厳しくしよう・・「もっとも危険を主張する意見による」べきと言う法基準が仮に新たに定立されていた場合には、一人でももっと厳しい違憲を主張する学者研究者がいたかどうかが司法判断の対象になります。
一人でも反対意見がいたら稼働させないと言う基準造りでは、稼働禁止を法(国民総意)で決めたのと事実上同じ(かぐや姫が不可能な結婚条件を出したのと同じ)効果になってしまいます。

原発問題と統治行為理論(専門家の限界)2

モノゴトには、100%の安全などあり得ない・・各種公害や交通事故、新規医薬品や工作機械、ロボット・・物的製品に限らず経済政策や社会制度も大量のテストや治験を繰り返しても実際に使って、実施してみなければ分らないことを前提にしています。
金融も、従来この程度の与信基準で安全と思われていたのが相手の出方が変わってその基準では不正融資申請がすり抜けてしまうなどのことがしょっ中起こります。
このため医療事故その他がその当時の医療水準で行なわれた結果の事故か、当時の医療水準に達していなかった結果なのかが過失の判定基準になっています。
ガスボンベや髭剃り用のカミソリや玩具のような身近なものから始まって、化粧品、医薬品や新たな手術方法、車や電車、飛行機、大規模工場設備まで、100%安全な製品などありません・・実際利用した結果副作用が分るなど一定の事故がいつも起きています。
労働環境も同じです。
高名な科学者が、モノゴトは何も分っていないと言ったとか養老孟司だったか?書いているのを読んだ記憶があります。
もしもどんな簡単なことでも「100%安全」と言う科学者がいたら、本物の科学者とは言えないでしょう。
これらを製造物責任制度、医薬品被害や事故等が起きると労災事故、医療事故・交通事故・・自動車のリコール制度等として救済しながら製品事故や損害を少なくして行くのが世の中です。
マイナンバー法に始まる各種技術ソフト・医療手技(各種移植)手術・新技術も全て100%の安全など前もって分りません。
戦闘機などの事故が時々あってもそれは普通のことと思われていますが、オスプレイ配備になると危険だ危険だと反対していますが不思議な現象です。
ある程度リスク率が高くとも、新たな技術を導入して実際にやって行く中で徐々にリスク率を減らして行った方が良いことはいくらでもあります。
子供が学校へ行く途中交通事故に遭わないとは誰も言えないように、100%で安全でない限り反対と言うばかりでは、何も出来ない・・社会の進歩反対と同義になってしまいます。
何か新たなソフトや技術を開発すると「絶対危険性がないと言えるのか」と言う反対論をしたがる左翼系文化人やマスコミは敵国の回し者かと疑いをかけられる根拠です。
絶対危険性がないと言うモノゴトはあり得ないのですから、新規技術発展になんでも反対すると言う主張を「安全とか平和」と言う言葉に言い換えているに過ぎません。
心臓移植治療や何万回治験しても100%安全とは言えない・・「ある程度」安全性が確認出来れば、その後は利用しながら副作用その他改善して行く・・漸進的進歩に期待するしかないのが、医薬品や医療技術に限らず全ての新規科学技術共通の問題です。
自転車だって絶対転ばないかと言われれば100%安全と言い切れる業者はいないでしょう。
ただ原発被害は髭剃りで頬をけがしたり、化粧品で頬がかぶれる程度とは違い、一旦被害が起きると結果が大き過ぎるので、被害が出てから工夫して行く従来方式に馴染み難い点が大きな違いです。
とは言え、100%安全など、この世の中にあり得ないのですから、結局は何%程度安全なら稼働を認めるかの基準にかかって来ることが明らかです。
100%安全でない限り稼働を認めないと言う基準が仮に決まっているとしたら、結果的に稼働禁止法が出来たのと同じです。
元々世の中に100%安全な製品やソフト(ハッカーから守れる情報)などあり得ないのが前提ですから、どの程度のリスクを許容するかは、国民判断によるしかありません。
100%安全かどうかの理論・・事実認定の分野であれば司法権の分野ですが、1万回に1回の確率、10万回に1回の確率、20万回に1回の確率・・各製品やその技術の有用性とリスクの大きさを総合してどの程度なら許容すべきかは、国民総意で決めるべきことで、司法が上から目線で決めるべきことではありません。
医薬品で言えば何回治験を繰り返せば許容範囲と認めるか・・車の走行試験のあり方など全てそう言う理解で良いのではないでしょうか?

原発問題と統治行為理論(専門家の限界)1

話が変わりますが、全体の利益を考える必要がないかのような一方的主張を繰り返している印象(しか知りません)の農協系主張は、左翼系主張方式に親和性がありますから、政権党向きではありません。
将来的には自民党から離れて行くべき・・逆に責任政党を目指すならば、自民党が離れて行くべきではないでしょうか?
韓国や中国が、兎も角無茶苦茶要求して来るのと似たやり方・相手が引くまで言うだけ言えばよい・・思考方式に左翼系が染まっているようです。
日本人のやり方は何事も相手の立場を慮って言い過ぎない前提ですから、こちらが引いていれば相手が遠慮すると思っていると「こちらが引けば中韓はいくらでも圧して来る」ので、慰安婦問題のように大変なことに発展してしまいます。
相手(国民全般)にそこまで(正しいかどうかは別として相手がのめば良いと言うスタンスで一方的な主張ばかりだと)思われたら(ヤクザとは二度と付き合いたくないように)後がありません。
旧社会党は「無茶苦茶言っているだけではないか」と言う国民評価が定着して事実上壊滅的状態になりましたし、今や日本人の嫌韓感情は後戻り出来ないほどになっています。
弁護士会の各種委員会の行動様式は、行け行けドンドンの一方的なやり方ですから、その委員会に出掛けて行ってたった一人で敢えて「企業にも言い分がある・消費者をそこまで守る必要がない」「犯罪被害者にそこまで権利を認めるのは反対」「少年にそこまで権利を認めるのは反対」と反対論をぶつために消費者委員会や少年委員会や男女共同参画委員会などに参加する人は(お前は人権意識が低い・・と吊るし上げられるだけですから・・)皆無と言っていいでしょう。
◯◯の人権と言うテーマも一杯ありますが、理想的には、完全な主張をすれば良いのかも知れませんが、実現性がない・・社会が容認出来ないことまで、オタク化・純粋化した委員会では反対論がなく通ってしまう傾向・・主張するだけしてその半分でも通ればいいのだと言う気持ちがあるように思います。
消費者系は頑張っている面が多くありますが、企業側の立場を認めない・・消費者視点で突っ張って行けば、企業利益は別の団体が主張するから弁護士は気にする必要がないと言うスタンス・・要求をどこまで勝ち取るかの視点で頑張っているように見えます。
刑事手続での各種専門委員会の要求もほぼ同様です。
こう言う委員会に入って「そんな無茶言っても通る分けないよ!」反対意見を主張するのは無理があるので、「行き過ぎじゃないの!」と思っている弁護士は殆ど委員会に入らないと思われます。
この結果、弁護士会の公式意見は、外見上反企業的、反進歩的・・新しい技術や製品が出るたびに「危険だ」と言う反対意見一色になっている印象です。
ただし、建築や医事紛争の委員会は、医療側と患者側の双方の弁護士で構成しているので、比較的抑制的な委員会になっていますし、こう言う委員会もいくつもあります。
(私の属している委員会はこう言う種類ばかりです)
政治要求的色彩の強い委員会・・対外運動系では一方的に反対運動したり、権利要求したりする傾向が多い・・元々対外宣伝したいのですから、これが対外的に目立つのは当然です・・知らない人は弁護士はみんな政治運動ばかりしているのかと誤解しそうです。
以上は私の個人的印象・偏見?ですので、具体的根拠はありません・・念のため・・。
たまたま、4月15日の日経新聞朝刊では、福井地裁で高浜原発再稼働執行停止の仮処分決定が出たと報道されていました。
裁判所は弁護士会の委員会のように特定立場の集まり・構成ではなく、双方の意見を聞くべき組織・・中立機関です。
事件詳細を知りませんので具体的意見は書けませんがので抽象的感想に留まりますが、高度な政治判断を含む紛争の場合、司法がどこまで踏み込めるか、抑制的判断するべきかと言う哲学的な論争が必要な印象を受けました。
重大な国家利益判断の妥当性に付いては、そのときの政治(国民総意)に委ねてその正邪は後世の歴史が決めて行くべき事柄です。
政治判断の訓練を受けていない法律家・・事実認定の専門家でしかない司法機関が国家の命運を決めるような重要政治決断の是非を判定する権利・能力がない・・最終決定権を行使するのは、司法権の濫用になります。
岸政権が改訂した安保条約に関しては、最高裁判所が統治行為理論で判断を回避したのですが、その後の歴史を見ると、明らかに賢明な判断だったと思われます。
統治行為理論に付いては、最近では、「解釈改憲3(憲法秩序の事実上改変)」October 8, 2014で書きました。

専門分化とサイレンとマジョリティ2

犯罪被害者委員会には被害者のために頑張ろうと言う意見を持っている人が多く集まるのが普通ですし、消費者対策委員会、こどもの人権、女性の人権、生活保護受給支援その他各種委員会、委員会の名称自体から推測される方向性と志を同じくする人が多く集まるのが普通です。
結果的に違った意見の人は(間違って入る以外?)参加しません。
この結果、千葉県弁護士会では、消費者系、民暴系などなど、それぞれ専門的スキルが磨かれるメリットがありますが、他方で、◯◯系と言う大きな系列化による行動パターンや党派的行動力が形成されて行きます。
自民党議員が族議員化して行った結果、省益追及機関になって行き、国益を考えなくなって行ったマイナスが噴出してかなり変わりましたが、弁護士会ではこの後追い的行動をしているように見えます。
大分前に日弁連選挙で宇都宮健児氏を担ぎ出す原動力になったのは、全国的な消費者系弁護士グループでした。
多くの弁護士は、消費者保護、少年の更生を願う、男女共同参画社会の実現、公害のない社会実現、安全な社会実現等々の基本理念に賛成していても、具体的政策・・出産時の会費免除まで必要か等々、どの程度の基準まで要求すべきかなど具体化すれば、意見が分かれるのが普通です。
公害のない社会が理想ですが、企業活動の必要性との兼ね合いでどこら辺までの規制が妥当かになると意見が分かれます。
交通事故を減らしたいから、30歳以下の免許を取り上げるべきだとは誰も言わないでしょうし、モノゴトは程度問題です。
数年前だったか?執行部提案が毎年のように否決された決議案の1つに会館建設委員会の成果を問う提案がありました。
会員が大幅に増えたことで、会館を新規に大きくする必要があることは、誰も認めるのですが、具体化になるといろんな意見があります。
専門に研究して来た委員会の意見が正しいとは限らない好事例です。
一生懸命に苦労して案を作って下さった委員の皆様には申し訳(専門バカ・視野が狭かったのでは)ないですが、偶然その後に好物件の売りが出たので、別の案にすんなり決まってしまいました。
これはタマタマの偶然だったのですが、最近専門委員会の結論が会全体の意見とあわない事例が増えて来た印象・・委員会から上がって来た決議案が総会で否決されることが続いたのは、それぞれ個別事情は違いますが、傾向としてみると専門化の進展と関係があるように思えます。
出産者に対する会費減免制度は実は日弁連会費に関しては既に成立しているので、千葉県で何故成立しないかの疑問ですが、千葉県の総会は会員の大多数が参加で、ケンケンガクガクの意見交換されますが、日弁連総会になると全国から集まるので、それぞれの代表(ノンポリの個人は滅多に参加しない)ですから、形式的議論で終わってしまう傾向が強いのとの違いでしょう。
比喩的に言えば・・公害抑制しながら生産との調整・・車の危険性と利便性・などなどモノゴトには調整が必要なことが一杯です。
女性の地位向上には管理職を半々に強制しろと言うは容易いですが、イキナリ強制して社会が成り立つのかと言う社会全体の視点も必要です。
単に「危険な車撲滅」とか「公害反対」と言っていれば、解決出来るものではありません。
原発・公害反対その他いろんな反対運動では、運動推進者にすれば、兎も角「反対していれば良いのだ、産業機械の必要性は企業が主張するから」と言うスタンスになる傾向があるように見えます。
逆に権利主張の方は「最低賃金引き上げや、生活保護対象拡大社会保障など要求だけしていれば良い、相手がセーブして来るから・・」その結果落としどころで決めれば良いと言う一方的主張になり勝ちです。
労組なども同じ傾向があって、「そんなこと言ってたら会社がつぶれてしまわないかと言う心配を気にしない」で要求だけしていた結果、自滅して行きました。
これを政党レベルで実行していたのが(何でも反対の)と揶揄された旧社会党でしたし、今でも目立つのは農林系議員と言うところでしょうか。

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