どこの国・社会にも、少数ではあるものの社会に対する不満の結果、一定数の過激思想の持ち主がいます。
社会に不満な人は一定数いるもので、その比率を下げることは可能でも、皆無にすることは困難ですが、昔は少数者や精神障害者が暴発してもすぐに取り押さえられて大した結果になりませんでした。
※最底辺の人だけが鬱屈しているのではなく、東大受験に落ちた人・・東大や一流企業に行ってもそこで落ちこぼれた人など各階層ごとに鬱屈した人は一定数います・・これがオーム真理教事件グループ内に一定のエリートがいた原因です。
要は個々人の精神の持ちようの問題が基本ですから、政治がうまく行っていれば鬱屈した人が減るものではありません。
アラブ諸国で過激思想の持ち主が仮に数%しかいなくとも、これが武装して過激行動に出ると厄介です。
先進国でアラブ原理主義に共鳴する人がかりに0、00何%しかいなくても、この僅かな人がイキナリ銃乱射事件や爆破を起こすと大変なことになります。
テロの脅威が高まったのは、始皇帝を狙った刺客列伝に出て来るような刀槍の時代に比べて、極端な少人数(100万対一人の戦いでも死を覚悟しての不意打ちの場合)でも火力が大きくなっていて大変な威力を発揮出来るようになったことに原因があります。
物理的威力・結果としては昔と大して変わらなくとも、平和社会になった反動で、1〜2人の殺傷でも、安心社会に対しては大きな衝撃を与えられるようになっています。
日本は平和な社会に慣れ切っているので、比例してテロに対する抵抗力が精神的に弱くなっています。
イスラム国のテロ組織に殺された日本人は2人しかいませんでしたし、しかも遠くの危険地域へ自分でへでかけて行った人でしたが、日本社会に与えた衝撃が甚大だったのです。
しょっ中あちこちの殺人事件や交通事故が報道されるので、「最近は物騒な世の中で困りましたね」と言う人がいますが、刑事事件統計では凶悪犯や交通事故死はもの凄く減っていることを大分前に統計表をコピーして紹介したことがあります。
昔は問題にならなかった北海道や九州のちょっとした事件や交通事故まで、東京で繰り返し報道するから、しょっ中事件があるような印象を受けるだけです。
「物騒になった」とか、「うっかり子供を遊ばせられなくなった」と言う人は、客観的事実を言っているのではなく、最近の「安全安心社会」を前提にちょっとした危害にも敏感になり耐力がなくなっているから、不安感を強調していることになります。
人間は暖かくなれば、たまにちょっと寒いと厳冬期より暖かくっても寒いと感じますし、その置かれた環境を基準に生きているものです。
しょっ中目の前で人殺しや強盗に遭っている社会では、ちょっとやそっとの犯罪に遭遇した程度で驚きません。
報道写真家の行動を見ていつも疑問に思うのですが、アフリカで裸足で歩いている子供は生まれつきそうした環境で育っているので、こちらの基準で可哀相と言って報道したり、クツや衣類を持って行って配る必要があるでしょうか?
現地の産業興隆の底上げに協力するならば意味がありますが・・衣類や食糧を配ることほど意味のないことはありません。
暑い国の人は可哀相だ、寒い国の人は可哀相だと言うのと本質は同じで、それぞれその環境が慣れていていいから極寒・炎熱の地で生きているのです。
紛争地域の子供は貧しいだけのアフリカの子供よりも悲惨なようですが、彼らも長年続く紛争やテロの現場を見聞きする環境で育っているのであって、日本の環境と比較して可哀相だと言って写真を撮りまくっているのって、上から目線っぽい感じがしますが、そう思うのは私だけでしょうか?
命をかけてテロの現場に入り組んで報道する人がいないと彼らの悲惨な現状が世界に伝わらない・・立派な行動をしていると賛美する印象のマスコミ報道が一般的です。
昨日書いたようにテロリストは一種の愉快犯ですから、世界に大々的発信してもらう方がやりがいがあるので、耳目を引くやり方をとっています。
彼らは政治支配する目的がない・多数の支持を必要としていないのですから、あっと驚くような残酷さなど大げさにアッピールすることが楽しみであり、目的でしょう。
こう言う手合いは、実は彼らの要望に応じて大々的な報道しないで放っておけば(政府・国際機関としては情報収集するのは必要ですが・・)自然消滅してしまうしかない運動体です。