証拠法則と科学技術2(自白重視2)

事件前後の状況が克明に記録されていることが、犯罪関与程度の証明が自白によらずに客観証拠によれるようになって来た社会的基礎です。
昨日紹介した憲法制定当時では、まだ自白を証拠の中心であることを前提にして、客観証拠で補強する必要がある程度でしかありませんでした。
この後で紹介する刑事訴訟法もあるいは昨今流行の取り調ベ可視化問題も、自白を重要証拠として自白獲得過程の透明化を狙ったものに過ぎません。
言わば、法律家は現在の科学技術の進展より100年くらい前の思想・・近代社会を実現するかどうかについて、今頃議論している状態です。
社会実態はもっと進んでいて、昨日紹介した各種科学技術の発達によって、自白中心から客観証拠中心に変えて行ける時代が来ています。
昨日紹介したニューヨーク市警の黒人殺害事件に関して言えば、誰かが撮影していたビデオ映像が決め手であって警官の自白・供述の有無(何故後ろから首を絞めたかの言い訳を聞く程度・情状程度しか意味がない)は殆ど意味をなしません。
この結果、アメリカでは、カメラ設置または自動撮影機の携帯を大幅に増やすと報道されています。
オービスによる写真プラス計測結果によって、速度違反も含めて、客観証拠が補強ではなく、中心になりつつある時代です。
こうした社会ルールの変化は進歩的文化人?の主張によって変わるのではなく、科学技術の発達が思想や実務運用を変えて行くものです。
進歩的文化人とは、国民の多くが海外の文物に接することが出来ない時代に、留学等で自分だけが知っている・・「海外ではこうだ」と直ぐ言いたがるグループのことです。
進歩的文化人とは、新しいことがスキと言うのではなく、欧米思想を勉強した者・・過去の権威を学び修得しただけのことですから、基本的に19世紀型欧米思想の保守的に親和性のあるグループであることを大分前に連載したことがあります。
革新系政党や団体は、「進歩的」文化人と言うブランド重視ですから、共産党などでは東大卒が大好きです。
我が国伝統的価値観を守るのではなくこれを否定する点が革新のように誤解されているだけで、近代から変化した現在社会から見れば柔軟性のない・超保守に見えてややこしいのは、欧米近代思想を守るための革新?系運動家ですから、彼らがこだわるのは現在よりは過去(19世紀型)の「近代思想」になるのは必然です。
現在社会の実態については、国民が等しく知っていて(タクシー運転手に聞く街角景気同様に現場人間の方が学者よりも世情に詳しい)優位性を保てないので、飽くまで近代法理にこだわっていることになります。
「護憲」勢力は、戦後パラダイムの基本改正に反対する点で象徴的ですが、いわゆる護憲勢力の共通項は、19世紀型思想にこだわる超保守政治家と同義であったこと・・戦後急速に進んだ現在型社会の変化にすべて反対する超保守・・結局「何でも反対の社会党」になるしかなかったことが、この関係を表しています。
現在は現在の社会・科学技術・経済活動を基礎にして新たなルールのが生まれつつあるのですから、現在の科学技術を前提に現在社会でのルールがどうあるべきかを議論すべきです。
新規科学技術の発達が、証拠法則を劇的に変えて行く・・証拠の客観化が進み自白または関係者の供述証拠の証拠価値を減らして行く大きな役割を現に果たしていることが分ります。
証拠の客観化の進行は、自白追及のために長期間拘束する習慣が自然に解消されて行くことに繋がるので、(私に言わせれば、公道で防犯カメラに知らぬ間に写真撮影されている程度の被害・マイナスに比べれば長期間拘束されて自白強制されるよりマシだと言う意見ですが・・)人権擁護を主張する我々弁護士にとっては望ましい動きである筈です。
客観証拠の発達があろうがなかろうが、自白の必要性の有無など「四の五の言わずに拘束を先ずやめるべき」というのが革新系の主張ですが、自白の有無に頼る裁判をしているかぎり、拘束が長引く傾向になるのは否定できないでしょう。
やはり、自白外の証拠で認定して行く社会。。科学技術発展を促進して行く方が、拘束と言う重要な人権侵害を減らして行けることが確かです。
ニューヨーク市警の例で言えば、警官が首を絞めたことが防犯カメラだけで証拠上充分として、警官の方で首を絞めた動機原因とし「て自分に有利な言い訳したいならば、聞いて上げましょう」と言う逆の関係になるので、拘束する必要がありません。

証拠法則と科学技術1(自白重視1)

責任を問う場面の極限である刑事罰の根拠について・・近代刑法では、自由な意思と実行行為の両輪(構成要件該当行為実行+故意)で犯罪が成立する仕組みですが、これは哲学者の机上理念の結果法理になったのではなく、当時の証拠収集能力・・証拠法則と密接に結びついています。
近代刑法原理もその時代の有用性に即して成立したものですから、現在社会・・社会構造が大幅に変化し来ている現在には、現在社会の実態に合わせた理念の再構築が要求されています。
犯罪構成要件の決め方が「行為」と言う外形事実を必須要件としたのは、犯罪認定のルールとして、えん罪を防ぐためには、内心の意思だけで処罰するのではなく、行為と言う外形的事実・証拠による認定を要求したことによります。
その結果自白だけでは処罰出来ないことその他、厳格な証拠法則が発達しました。
近代刑法の理念を具体化した日本国憲法を見ておきましょう。

憲法
第三十八条  
 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
 2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
 3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

共謀罪についても、内心の意思だけを理由に犯罪にするのでは、恣意的運用・・政治弾圧になり兼ねません。
今の科学技術でも、内心の意思そのものは神様しか分らないのですから、どうしても判定したいとなれば、神判に委ねるしかないと思われます。
外形行為があれば内心の意思の判定は可能です・・例えば、人のクビを故意にちょん切った場合「まさか死ぬとは思わなかった」と言う主張をしても、殺意が認定されます。
即ち内心の意思・・故意=殺意の有無を争うのが裁判の主たるテーマですが、実際の裁判では、間違ってクビに刃物があたったかどうかが重要争点になり、この認定によって、殺意の有無が違ってきます。
警官が足を狙ってピストルを射ったところ、タマタマ相手が転んで頭に当たったとかいろんな主張がおこなれますが、全て殺意と言う内心の意思確定業です。
周辺事情に関する外形行為の証拠収集能力が発達しない時代に、内心の意思をそのままストレートに認定するためには、「神様しか分らないよ!」となって、古代には神判が行なわれていたのはこのせいです。
これがあまりにも不合理なことから、自白していれば、「本人が自分の気持ちを言うのだから確かだろう」・・逆から言えば、自白がない限り無理に認定しないルールが世界標準になりました。
これが「自白は証拠の王」と言われるようになった所以です。
本人の意思次第と言う・・人権重視・・えん罪を防ぐ目的から言えば、当時とすれば画期的理想的な制度でしたが、これを悪用して、「悪いことしても自白さえしなければ良い」と言う狡い人が出て来ると、この制度の有用性が揺らいでしまいます。
現在でも刑事弁護専門家によると、どんな事件でも、完黙(黙秘権を行使して何も話さないで押し通す)を進める弁護技術が奨励されているようです。
この論者の本心は、「免れて羞じない輩を唆す」目的ではなく、多分・捜査機関は外形証拠をきっちり収集すべきであって、自白に頼ろうとする捜査手法に問題がある捜査の科学化の進展を期待する愛のムチと言うことでしょう。
外形証拠が足りず有罪立証出来ないならば仕方がない・・これの繰り返しで、捜査機関が発奮努力して合理的な新技術が発展するのじゃないかと言う前向き意見と思われます。
上記の例で言えば、相手が直前に転んだのかどうかは防犯カメラで分ることが多くなりましたし、防犯カメラやGPS・各種電子機器・現場に残された微量の毛髪その他の収集能力の発達がDNA等によって、事件現場やそこに至る犯人の行動記録が秒単位で証拠として残る時代が来ました。
昨日あたりからニューヨークで大騒ぎになっている同市警察での黒人死亡事件も、警官が後ろから首を絞めていたことが議論になっていますが、これもビデオカメラと音声録音の御陰ではないでしょうか?

近代法理の変容6(故意・過失から業界標準へ)

責任分野については、意思(応用としての過失)責任主義が(今世紀に入ってからではなく)20世紀に入ってから、いろんな分野で結果責任主義に変容していることは、不法行為法(自動車事故に関する自賠責法の立証責任転換などで事実上)に始まってあらゆる法分野で顕著な事実です。
契約関係においても、今では過失責任主義・債務不履行責任追及よりは、何かと瑕疵担保責任が強調されるようになっていて、裁判では過失の有無よりは瑕疵があるかどうかが争点になる事件が増えています。
内心の意思がどうであったかの探求よりは、作られた製品やサービス・技術水準・客観的性能が契約時の水準に達しているかどうかでどちらが責任を負担するかを判断する時代です。
原発事故についても、設計に関するどの分野での過失責任かを論じるよりは、結果として被害が起きている点をどう解決するかの議論です。
債務不履行構成のときには、誰の意思能力を基準にするのかについて問題になるので、「通常人の能力」を基準にして過失の有無を判定していました。
いろんな分野で専門化が進んで来ると、一般人の能力を基準にするのでは無理があるので、業務上過失と言う犯罪類型を作って業務従事者としての標準的注意義務を基準にするようになりました。
長年交通事故は業務上過失罪として処罰されてきたことをご存知の方が多いと思います。
今では個人の意思能力がどの辺にあるべきかを基準にするのではなく、専門業種ごとにトキの科学・技術水準を基準に判定する分野が多くなっています。
今、アメリカで大問題のエアバック・・タカタ製品について言えば、メキシコ工場製であれば、メキシコ人の能力を基準にすれば、日本工場製品より歩留まりが悪くてもメキシコ人には過失がないことになるでしょう。
しかし、今の時代は個人や集団の資質・過失の有無を議論するのではなく、期待される性能を有しているかどうかで責任を問われる時代です。
この辺の変化は医療事故に関する損害賠償分野で先に進んで来たように思いますが、今はいろんな分野でこうした考え方が取り入れられています。
哲学的に考えても近代法が理想としたカントの想定するような自立した意思を確立している人は稀ですし、仮に自我を確立していても、専門外では商品知識が乏しいのが普通です。
一般に業者と消費者とでは、情報の非対称性が言われています。
それはそのとおりですが、情報さえ対等になれば良いものではありません。
仮にある量販店である製品を売っていて商品知識の高い店員であっても、自分がある店に行って自分の扱っているのと同じ商品を買う立場になるときには、その店の示す約款を承諾をするしかないのですからどうにもなりません。
ネットで何かやろうとすると直ぐに同意文書が出て来て、それに同意しないと前に進まないような仕組みですが、殆どの人は一々読まないで同意をクリックしているのが普通でしょう。
このように、日常的に本来の意味の自由意思を発揮出来ないことが多くなって来て、消費者保護法等が発達して来ました。
今どき自由意思があるか、意思能力があるかの議論をしても始まりません。
市民社会から近代工業の発展→大衆社会の到来→経済的には消費社会化到来については、これまで何回も書いてきました。
最早、日本は近代社会ではなく現在社会です。
法理や基本ルールはその社会での必要性・・有用性があって成立したものです。
社会を律する理念がその当時の社会実態と無縁に成立するものではありません。
現在社会には現在に適した法理が生まれつつあり、この分、近代法の原理が侵蝕され、(全面的と言う意味ではなく部分的に侵蝕されていると言う意味です)これに反する結果が生じるのは当然です。
逆から言えば、中国や韓国では社会全体にまだ(約束を守るべしと言う)近代合理的社会に到達していないことが分ります。
(政府トップの大統領や裁判所でさえ、こう言う意識で公言していることを昨日書きました)
約束を守るルールが未発達の民族は、その裏側として当然噓も平気で言いますし、その前提としてでっち上げもやりますので、約束を守り噓を言わない近代人と思って付き合うと、しょっ中裏切られたような気がするのは仕方がないことです。
また約束を守れる期間は民度によって、数分から、1時間だけ10時間、10日間、1ヶ月、1年〜10年〜20年〜次世代への恩返しと広がって行きますが、動物類はホンの数分だけと言うことが多いものです。
シーワールドで、シャチやアシカなどの演技を見ていると、動物には動物への対応の仕方がある・・芸をするたびに餌をやって手な付けているのが普通です。
「昨日お腹いっぱい食べさせたから良いでしょう」と言うのでは、芸をしません。
「河野談話さえ出せば・・」とその場しのぎのことをいわれて協力すると、今度はその上を要求して来るのは、どの段階のレベルでしょうか?
朝三暮四の故事にあるとおり、目先の利益ばかりで行動する傾向のある中韓両国相手には、この基準で対応すれば良いことで、近代人相手のつもりで長期的視点で世話しているのに、恩知らずだと怒っても仕方がないことです。
目先の餌で対応して行くしか能がない国民レベル・・相手と割り切って行動すれば、かえって御し易い民族であって損をすることはあり得ません。
反中国、嫌韓のネットでは中韓と付き合うなと主張していますが、右翼人材は相手に対する愛があると言うか対等に考える前提があるからそうなるのであって、企業は中間層やトップ人材ばかりでなく、底辺層・現場労働者もいないと成り立たないのですから、世界の底辺層が近くに大勢いると思って、有効利用すれば済むことです。
シーワールドで人間が踊っても誰も見に行きませんが、シャチやアシカがショーをするから人が集まるのです。
民間企業は、中韓の人材・能力レベルを見極めて、能力に応じて有効利用するために進出していると思いますので、右翼が企業のことまで心配してやる必要はないでしょう。

近代法理の変容5(クーリングオフ3)

近代法意識に馴染み難い分野あるいは先端の特定商取引分野でも、無期限に撤回出来ると相手の立場が安定しないので、一定の行為をするまでとか、マンション売買等のローン条項のように一定期間内ローン不調での白紙解約などの特約が一般的です。
一般契約では特約が必要ですが、クーリングオフ制度は、特約がなくしかも履行が終わっていても何らの理由もなく撤回出来る仕組みです。
(既に消費していても消費分について代金請求すら出来ないうえに、引き取り料も業者負担ですから、文字どおりなかったことにする制度です)
以下参考までに条文を紹介しますが、たった1条だけの引用でも今の法律は文言が多過ぎて大変です。
面倒な人は読み飛ばして下さい。
いろんな場合を全部説明していると条文と同じことになりますので省略しますが、骨格で言えば、特定商取引に関しては、8日間に限りクーリングオフ出来るという条文です。

特定商取引に関する法律
(昭和五十一年六月四日法律第五十七号)

(訪問販売における契約の申込みの撤回等)
第九条  販売業者若しくは役務提供事業者が営業所等以外の場所において商品若しくは指定権利若しくは役務につき売買契約若しくは役務提供契約の申込みを受けた場合若しくは販売業者若しくは役務提供事業者が営業所等において特定顧客から商品若しくは指定権利若しくは役務につき売買契約若しくは役務提供契約の申込みを受けた場合におけるその申込みをした者又は販売業者若しくは役務提供事業者が営業所等以外の場所において商品若しくは指定権利若しくは役務につき売買契約若しくは役務提供契約を締結した場合(営業所等において申込みを受け、営業所等以外の場所において売買契約又は役務提供契約を締結した場合を除く。)若しくは販売業者若しくは役務提供事業者が営業所等において特定顧客と商品若しくは指定権利若しくは役務につき売買契約若しくは役務提供契約を締結した場合におけるその購入者若しくは役務の提供を受ける者(以下この条から第九条の三までにおいて「申込者等」という。)は、書面によりその売買契約若しくは役務提供契約の申込みの撤回又はその売買契約若しくは役務提供契約の解除(以下この条において「申込みの撤回等」という。)を行うことができる。ただし、申込者等が第五条の書面を受領した日(その日前に第四条の書面を受領した場合にあつては、その書面を受領した日)から起算して八日を経過した場合(申込者等が、販売業者若しくは役務提供事業者が第六条第一項の規定に違反して申込みの撤回等に関する事項につき不実のことを告げる行為をしたことにより当該告げられた内容が事実であるとの誤認をし、又は販売業者若しくは役務提供事業者が同条第三項の規定に違反して威迫したことにより困惑し、これらによつて当該期間を経過するまでに申込みの撤回等を行わなかつた場合には、当該申込者等が、当該販売業者又は当該役務提供事業者が主務省令で定めるところにより当該売買契約又は当該役務提供契約の申込みの撤回等を行うことができる旨を記載して交付した書面を受領した日から起算して八日を経過した場合)においては、この限りでない。
2  申込みの撤回等は、当該申込みの撤回等に係る書面を発した時に、その効力を生ずる。
3  申込みの撤回等があつた場合においては、販売業者又は役務提供事業者は、その申込みの撤回等に伴う損害賠償又は違約金の支払を請求することができない。
4  申込みの撤回等があつた場合において、その売買契約に係る商品の引渡し又は権利の移転が既にされているときは、その引取り又は返還に要する費用は、販売業者の負担とする。
5  販売業者又は役務提供事業者は、商品若しくは指定権利の売買契約又は役務提供契約につき申込みの撤回等があつた場合には、既に当該売買契約に基づき引き渡された商品が使用され若しくは当該権利の行使により施設が利用され若しくは役務が提供され又は当該役務提供契約に基づき役務が提供されたときにおいても、申込者等に対し、当該商品の使用により得られた利益若しくは当該権利の行使により得られた利益に相当する金銭又は当該役務提供契約に係る役務の対価その他の金銭の支払を請求することができない。
6  役務提供事業者は、役務提供契約につき申込みの撤回等があつた場合において、当該役務提供契約に関連して金銭を受領しているときは、申込者等に対し、速やかに、これを返還しなければならない。
7  役務提供契約又は指定権利の売買契約の申込者等は、その役務提供契約又は売買契約につき申込みの撤回等を行つた場合において、当該役務提供契約又は当該指定権利に係る役務の提供に伴い申込者等の土地又は建物その他の工作物の現状が変更されたときは、当該役務提供事業者又は当該指定権利の販売業者に対し、その原状回復に必要な措置を無償で講ずることを請求することができる。
8  前各項の規定に反する特約で申込者等に不利なものは、無効とする。

近代法理の変容4(クーリングオフ2)

日本でも社会の隅々(最後になる家庭や個人の意識)まで近代法の原理が浸透して来たのは最近・・数十年前ころからのことです。
大通りから道を整備して行っても、裏通りまで整備が行き届かせるのは大変なことですが、これが完成しているのです。
裏通りや個々人の内面まで法の支配(見ている人がいなくともルールを破らない)が行き届いてるのが、現在の我が国であり、日本は現在社会の世界最先端を走っていると言うべきでしょう。
裏道や小さ過ぎる分野、家庭などの特殊分野だけはなく大き過ぎる分野・・国家同士の関係も法が及ばない分野として、長年理解されていました。
武力次第で列強が好き勝手にやって来たのが近代国際関係でしたが、これも現在社会では国際法秩序に従うのが基本になってきました。
戦国時代が終わって秀吉の「天下仕置き」の時代(欧米による戦後秩序形成)が来ていると言えるでしょう。
日韓条約で「全ての解決」と決めていても、後出しで損害賠償を命じる韓国裁判所は、言わば近代法以前の社会を前提に「約束・・意思表示を守らねばならない」と言う近代法の原理を、国単位・・エリートの裁判官ですらまだ理解出来ていない状態を表しています。
韓国では、大統領まで恥を知らずに前近代的情念を公言する状態ですから、裏通りではなく表通りでもまだそこまで進んでいない情念社会にあること・・・近代法以前の社会意識がまだ主流なのでしょう。
中国の武力に基づく領土拡張行為もモノゴトは約束(意思表示)で決まって行く・・効果が生じると言う近代法の原理を無視したやり方・・秀吉の天下仕置きを理解しないで動いた伊達政宗のような行為である点では同じです。
中国社会では上は私腹を肥やすのに精出して、下はルール無視・・剽窃や海賊版が横行しているのは、民意レベルがまだその段階・近代の入口にあることの量的現れです。
民主的価値観共有の国と仲良くやると言う表現をマスコミや政治家は言いますが、そんな底の浅い価値観ではなく、(アラブの春でも書きましたが、「今度民主化する」と言えば直ぐに出来るものではなく)基礎になる社会状況・・社会全体意識の底上げがない社会と付き合い切れないと言うことです。
昔から「小人と◯◯は度し難し」と言いますが、小人と大人(おとな)の付き合いするのは無理があると言うことです。
・・専制君主制意識のママ上は法に基づかずに粛清その他やりたい放題やるし、下は、違法行為しまくり・・と言うルール以前の社会にあるか否かの違いです。
中韓両国政府の行動を見ると政府トップからしてまだ等価交換の意識が根付いていない社会意識を表しています。
左翼文化人の近代法の理念を説く考え方は、今の中韓両国民相手に説くならば実態にあっています。
撤回に戻しますと、一人前でない人や、あるいは気を許した関係で軽弾みなことが多い近代的関係のない場面・近代化の遅れている分野ではでは、法律効果を強制するの酷だから(君主の無答責は保守系との妥協?)とこれを反古にする分野が残されて来たのが撤回権です。
夫婦でも懐が別と言う夫婦が増えて来ているように、商品交換経済化が進むと近代法理の入らない特殊分野が縮小して行く過程でしたが、消費者分野では個々の意思能力の弱い人の保護よりは、社会的な状況による弱者保護の必要が出て来たのです。
その人個人の能力資質として弱いかの基準ではなく、強い人も消費者になると弱い立場になる・・トキと場合によって入れ替わる時代になりました。
今では、経営と労働者の対立よりは消費者か供給側かの力の差が問題になって来ています。
現在人は全て合理的取引している筈ですが、消費者タイ企業となると圧倒的に企業が情報その他で有利なためにこのような撤回権が創設されて来たのです。
理由もなく撤回出来ると言っても、近代以前の無法社会?情実社会に戻るのではなく、特殊分野(特定商取引)に限定して一定期間約束を守らなくても良いと言う意味です。
それにしてもいつでもどんな場合でも撤回出来るのでは契約が不安定ですから、贈与の場合でも書面の場合は駄目とか、やってしまったものを後から気に入らないからと取り上げることは許されない仕組み・・履行するまでしか撤回出来ない仕組みでした。

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