年末モードになったと思ったら、最早大晦日です。
月日の過ぎ去る早さに驚くことの多いトシになってきました。
「1年間は10歳では10分の1で20歳では20分の1、50歳で50分の1ですから70歳では70分の1になるから短く感じるのだ」と分ったような解説を聞きます。
しかし、それだけではなく高齢化による体力・知力の変化も大きな要因になっているような気がします。
体力で言えば、70台〜80台になれば4〜5年ごとの体力の衰えの速度は4〜50台に比べて半端ではないと言われます。
10年ほど前に私よりちょっと年上の弁護士に久しぶりに裁判所で対面したときに、(私がその先生の年老いた感じに驚いた表情をしていたのかも知れませんが、)相手の方からイキナリ、「この数年のトシの差が大きいんだよ!」と言われて「そうかあ!」と納得したことがあります。
その弁護士は平均的弁護士よりもかなり早い年齢で・・数年前に隠退しましたが、今の70台ではそんなに差が起きないと思います。
とは言っても、80代半ばになって来るとちょっとした病気をしたかしないかの差で、40〜50台の20年分以上に匹敵する差になることがあるでしょう。
それもそうですが、それに加えて最近の自覚では加齢に比例して直ぐに忘れてしまう傾向があることも無視出来ないように思えて来ます。
ただし自分の経験では、何でも均等に忘れるのではなく、従来はそれほど重視しない記憶でもそれなりに記憶していたのに、最近は重要でないと思った記憶はすぐに忘れて行く傾向があります。
書道で言えば墨の薄いところから、早くかすれて行くような感じです。
自分に都合良く解釈すれば、どうでも良いような日常のこと・・・雑多なことがすぐに忘れる・・その早さに驚くばかりです。
気楽に忘れて行けばこの間の時間記憶が消されて行くので、(ビデオや録音から無駄な会話を消去すれば1時間分の録音が10分の録音時間になりますから)早く過ぎ去ったかのように思えるのかも知れません。
この考えによれば、高齢化とは内容の残らない時間を削ぎ落とす能力が身に付いた世代・・効率の良い人生を生きている世代となるのでしょうか?
何をやっても栄養・滋養にならない・・経験に残らないのは無駄とは言うものの、老い先少ないので無駄を削ぎ落としているとすれば意味があります。
食べたことを忘れてすぐにお腹がすいて、胃もたれを心配しないで次々とおいしいものを食べられるとすれば、夢のような感じですから何も悪いことではありません。
「ボケてしまい、さっき食べたばかりなのにまだ食べてないと言われる」と文句を言う人がいますが、お金があるならば、いくらでも食べたいだけ・スキなだけ何回でも食べさせてやれば良いのじゃないかと言うのが私の無責任な意見です。
実際には忘れるのではなく胃腸からの満腹感の信号機能が衰えているだけかも知れませんので、本当にもう一回食べられる人はいないでしょう。
食べ足りない欲求の人は、もしかして若い頃に食べたいだけ食べられなかった(戦中戦後の)ひもじい記憶が残っているからでしょうか?
あるいは、ヒマになって食べると言う原初的欲求だけが残っているのかも知れません。
入院したり退屈なときには、まずい病院食でも食事の時間がやけに待ち遠しいものです。
物忘れに戻りますと、映画を見てその都度皆忘れても、その都度内容が良ければ感激すれば良いことであって、その映画を見たと記憶していて知人に自慢する必要もありません。
私は近年では、万葉集や漢詩その他のホンを何回詠んでもすぐに忘れるので、その都度同じホンを読んでも斬新で安上がりです。
歴史やその他の講義も聴いてすぐに忘れても良いのです。
そのときに納得すれば良いことで、テストの心配もないし、それを活かして何か成功する必要も人に競り勝つ必要もないのし今後の人格陶冶に役立てる必要もないので、覚えている必要がないでしょう。
美術展に行ってもお勉強する必要がないので、これを記憶しておいて・・と言う慾もありません。
ただ単純に展示品の善し悪しを楽しめば良いことです。
将来を考える必要もないし、今さえ良ければ良い・・高齢者は世俗の欲得(時間軸)を離れて今を贅沢に楽しめばいいので、高齢者になるのは目出たいことです。
誰でも失敗やイヤなことが少しはあるものですが、皆様・若い人でも高齢者の物忘れの智恵にあやかって今年一杯のイヤなことをさっぱり忘れて新たな年を気持ちよく迎えられるのは良いことです。
忘年会は、飲み騒ぐことに意味があるのではなく、忘れる価値を見いだすことに意味があって始まったことではないでしょうか?
高齢者(私自身)の物忘れ加速を言祝ぎながら今年のコラム納めとします。
来年もよろしくお願いします。