証拠法則と共謀罪2(自白重視)

近代刑法・・この結果である現憲法も、昨日紹介したように拷問禁止するだけではなく、自白だけでは有罪にしないで、補強証拠を求めるようになっただけであって、現在も自白重視の精神は変わっていません。

刑事訴訟法

第三百二十条  第三百二十一条乃至第三百二十八条に規定する場合を除いては、公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない。
第三百二十二条  被告人が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面で被告人の署名若しくは押印のあるものは、その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき、又は特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限り、これを証拠とすることができる。但し、被告人に不利益な事実の承認を内容とする書面は、その承認が自白でない場合においても、第三百十九条の規定に準じ、任意にされたものでない疑があると認めるときは、これを証拠とすることができない。
○2  被告人の公判準備又は公判期日における供述を録取した書面は、その供述が任意にされたものであると認めるときに限り、これを証拠とすることができる。

刑訴法320条は伝聞調書の原則禁止と言う原理で、被告人以外の人の供述書は原則として証拠に出来ないのですが、322条で被告人の不利益承認供述=自白は任意性に疑いがない限り証拠に出来ると言う原則です。
人は、自ら不利益なことを言う筈がないから、自分で不利益なことを言う=自白するならば確かだろうと言う自白重視原理の表明です。
ところが実際には、人は弱い者で、いろんな状況下で刑事に迎合してやってもいないことを言えば、刑が軽くなるかと思ったりして妥協してしまう傾向があります。
良く知られているところっでは痴漢疑いで逮捕されたサラリーマンが半年近く拘束されて裁判していると会社に知られてクビになってしまうことから、認めれば罰金程度だと言われると刑事に迎合して認めてしまうリスクがあります。
大阪地検特捜部の事件以来、流行になっている取り調べ可視化問題と言うのも、証拠としての自白の重要性を前提に自白取得過程を録音録画しよう(しゃべらないといつまでもられないようにしてやるからな!とかの脅しや拷問がなかった証拠のために)と言うだけです。
自白の重要性を前提に今も議論が進んでいると言えるでしょう。
話題がそれましたが、内心意思は外形行為が伴わない限り誰も分らない・・今の科学技術を持ってしても分らない点は同じですから、共謀罪においても内心を意思を処罰するのではなく、内心の意思が外部に出たときで、しかも第三者と共謀したときだけを犯罪化するものです。
即ち自分の意志を外部表示するだけではなく、「共謀」と言う2者以上の人の間での意思の発露・条約文言で言えば「相談する」→「表示行為」を求めることにしています。
共謀するには内心の意思だけではなく、必ず外部に現れた意思「表示行為」が必須です。

上記のとおり、共謀罪も、表示行為を実行行為としたのですから、内心の意思プラス外形行為を成立要件とする近代刑法の仕組み・・証拠法則は残されています。
表示行為と言う実行行為を要件にする点において、内心の意思のみを処罰対象にしない・・実行行為を要求する近代刑法の枠組みを守っていることになります。
共謀の実行行為が要請されている点では近代法の原理の枠内ですが、殺人や強盗の実行行為ではなく準備段階を越えて更にその前段階の共謀と言う意思表示・内心の意思に最近接している行為を実行行為にしている点が危険感を呼んでいるのでしょう。

共謀概念の蓄積1

共謀罪の対象が全ての犯罪ではなく一定の凶悪犯だけとすれば、悪事共謀の事実が証拠で認定出来てもこの段階で処罰すべきか放置すべきかは、政治が決めるべきことです。
法律論としてみれば、この段階で処罰したり、検挙して犯罪実行を抑止することが何故人権侵害になるのでしょうか?
逮捕裁判するには厳密に絞られた共謀の事実(あてはめ)と確かな証拠がいるのは自明ですから、反対論者は確かなあてはめと証拠があっても処罰べきではない・・人権侵害のリスクがあると言う矛盾した論理で反対していることになります。
この程度のことは事実と証拠があっても処罰すべきではないという政治論を法律論の如く主張していることになります。
特定犯罪の共謀の事実があってそれを裏付ける「証拠があっても駄目だ」と一生懸命に反対している勢力はもしかして、どう言う人や集団の利益擁護をするために頑張っているのでしょうか?
恨みを晴らすためや保険金殺人のために自分に代わって殺人をしてくれる人をネットで募集するような個人もいます。
大した考えもなく何となく誘拐犯をネット募った結果、初対面同士でグループになって誘拐・殺人行為をしたグループが数年前にいました。
今回の北大生が簡単にテロ組織「イスラム国」に参加しようとしたことのハシリみたいな事件でした。
個人であっても、ネットで公開募集して犯行計画を進めている場合に、(証拠があっても)これを事前検挙抑止出来ないのでは社会が危険過ぎます。
(危険過ぎるかどうか、この程度ならば放置しておいて誘拐・殺人等の実行行為を待って処罰すべきかどうかは、国民・政治の判断事項であって法律家が専門的な意見を持っている訳ではありません)
法律家が懸念すべきは、共謀概念の曖昧さによる恣意的な検挙の危険性防止…思想信条の自由・・・内心仕返しをしたいとかいろんな妄想段階・ちょっとした冗談や世間話まで処罰されるのでは困りますので、この辺の心配を訴えるのは当然です。
法律家としては、共謀事実の定義・境界の緻密な議論と証拠論が重要です。
内心の妄想の域を超えて 具体的な計画を立て第3者を交えて計画するようになれば放置すべきではない・・共謀罪処罰対象の共謀とすべきでしょう。
要は、どの程度の意思の連絡があれば(冗談に相づちを打った程度ではなく)共謀があったと認定すべきかの学説判例の集積による分野です。
この辺は、わが国では、諸外国と違い昭和30年代から共謀共同正犯理論が学説判例上発達して来たことを無視すべきではないでしょう。
この集積の結果、共謀概念の成立要件についてかなり精密に事例が集積されていますので、諸外国よりも共謀の限界事例集積が進んでいる・・言わば共謀定義に関する先進国です。
(高齢化やデフレ現象が諸外国より早く進んでいるのと似ています)
10月22日に紹介した条約では「相談することを犯罪とする」とあるように「相談」となっていて、我が国の法律用語である「共謀」となっていないのは、我々法律家が見れば驚くような幅広い概念です。
諸外国では、日本のように50〜60年以上(後に紹介する最高裁判決が昭和33年ですから、そこまで行くには10年以上の実務があります)に及ぶ共謀概念の事例蓄積がなかったから、こう言う漠然とした用語になったのではないでしょうか?
ちなみに共謀共同正犯論は、これを最初に提唱した草野豹一郎博士の昭和7年論文と言われていますから、その後幾多の学説論争を経て、昭和33年の大法廷判決になっているのです。
当時共謀を処罰するのは近代刑法の個人責任主義や、行為責任主義に反すると主張されていたのですから、反対論の主張によれば日本だけが突出して経験を積んで来たことになります。
我が国では諸外国と違い、(上記のとおり想像に過ぎませんが・・)相談や協議や会談等の漠然としたいろんな概念の中で、このコア(中核)になる「共謀」と言えるまで厳密に絞り込まれたときに限って共謀認定して来た・・長年運用して来た実績があります。
私のように刑事事件をあまりやっていない弁護士でもこれまで共謀共同正犯事件・・どの時点で共謀が成立したと言えるかなど数え切れない程担当して来ています。
実際に殺人事件等が起きてから後追いでやって来た従来の共謀認定とは、殺人行為等実害のまだ存在しない段階での共謀認定とは方向性など違いますが・・少なくとも共謀認定の実績・事例集積がある点では諸外国とは大違いですから、既に法制化している諸外国よりも我が国の方が濫用リスクが少ない筈です。
我が国では普通の「相談」程度では法律用語としての「共謀」にならない・・充分に絞り込まれていることは、争いがないと言い切れる状態です。

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