国際情報の一般化と知識人の没落3

何か事件があって誰かがスレを立てると直ぐに世界中の庶民が反応した意見を書くので、それぞれの国の庶民のナマの感想・・知的・文化レベルが手に取るように分るのも一例です。
戦後フルブライト留学生など、一部のエリートしか留学出来なかった時代には、留学した先の欧米が如何に素晴らしいか・・その素晴らしい文化を自分だけが知っていると、ひけらかしていた時代は終わりました。
日本が豊かになったことによる大量の私費留学生や世界に大進出を開始している企業による大量海外赴任時代の到来で、エリートによる海外情報独占は事実上終わりを告げていましたが、ネット時代が来て完全に終わったことになります。
千葉市美術館で日本の水彩画の草分けという大下藤次郎氏の企画展が開催されているので5月31日にみてきました。
日本画であれ油絵であれ、プロの使用する絵の具は今でもすごく高価なものですから、水彩画が普及していなければ、子供のころから誰彼なしに絵を描くチャンスがなかった訳ですから、水彩画の普及が日本人の絵心の裾野を広げた功績は甚大なものがあったことになります。
日本では江戸時代から庶民が浮世絵の購入客であったことが、教会の宗教画や王侯貴族の肖像画が中心であった西洋とは大きな違いでした。
ちなみに物の本による庶民とは、近代まではブルジョを庶民と言っていましたので、貧しい家庭のの子供まで学校で絵を習う・・描く主体になるには、水彩画の普及が必須であったでしょう。
上記大下氏が明治20年代末頃に千葉県の館山湾(別名鏡浦と言いますので、鏡のことを別に古来から菱花とも言うらしく、シャレて菱花日記となっていました)から白浜方面にかけて1ヶ月ほど滞在したときの絵日記が公開されていました。
大量の絵日記の記述は実に洒脱で、しかも一々の記述が社会観察の本質を突いているのには唸りました。
その中に洋行帰りの人に会うと長い「自慢話に恐れ入る」という意味の賛(正確には忘れました)が書いてあります。
私はこのコラムで最初のころから、横書きを縦にしているだけで威張っている人・昭和40年代ころには何かあるとテレビに学者が出て来て、したり顔で「欧米では・◯△◯・」と言う解説が横行していたことを、10/22/04「刑罰と教育の民営化のすすめ2(太平洋戦争の敗因は?1)」06/07/06「武士と軍部の違い2(純粋培養の時代2)」その他で批判的に書いてきましたが、明治の20年代末にはこう言う批判精神が既にあったことにいたく共感して帰ってきました。
話を戻しますと、海外進出も初期にはロンドン・パリやニューヨークなど首都中心でしたし、会う相手も相手国の上級幹部中心でした。
企業のグローバル化が進むとエリートの海外赴任よりも、工場進出やスーパーなどの現場系進出が中心ですから、出張する人材や駐在員も工場関係者や現場系が多くなります。
アメリカへ行くと言っても地方都市や郡部中心になってきますし、生産工場に限らず販売網も地方に食い込まないとどうにもならないので、いわゆるどさ回りが多くなります。
従来型幹部やエリートの留学や出張がない訳ではありませんが、(工場進出を決めたりするにはトップクラスが何回も足を運びます)昔と違って、エリートや幹部だけではなく、その他大勢の海外赴任比率が上がった点をココでは書いています。
この結果庶民レベルの交流が広がり、庶民レベル(風景で言えば、有名な場所だけではなく普通の景色)庶民の生きているたたずまい)が赤裸々に分る時代が来ています。
ちなみに国の基礎レベルは、普通の道路状況や路地裏や下層階層の生き方・レベルで決まります。
たとえば、北朝鮮のような貧しい国でも首都の表通りだけならば綺麗にしたり立派なビルを建てることが出来ますし、将軍様やその取り巻きだけならば、日本の総理よりも高給料理を食べ・高級衣装を身に着けることが出来ます。
庶民レベルになると今年何万人が餓死する予想などと報道されるほど、とんでもないほど生活水準や意識が低いのです。
従来の知識人は路地裏を見ないで立派な表通りだけ見て来て欧米はすごいとか共産主義社会はすごいと宣伝していたのです。

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