アメリカは自力で友好国の安全保障を(日本等の自助努力による補完がない限り)「完全には」出来なくなったことから、中国がこの隙をついて既存秩序破りに動き出したのが現在アジア情勢です。
警官が来るには来るが直ぐには来られないとか警官一人では強盗を追い出す力まではないので家人と協力してならば可能という状態です。
こうなれば、自分の家族を守るにはある程度自衛するしかないのは理の当然ですし、自力だけではおぼつかなければ隣組で連帯して(集団で)強盗や山賊に対抗するしかありません。
それでもどうにもならないとなれば外部から助っ人を頼むしかない・・太平洋の彼方のアメリカに応援を依頼するのが(数日前の上海での習近平の演説) 何故悪いのか、理解できません。
戦闘力のない農民が100人集まってもどうにもならないとなれば、村を守るために戦闘集団を雇った映画7人のサムライのパターンです。
ココで集団自衛権の議論が出て来ます。
「政府が憲法解釈を変えるのは違憲だ」という変な議論を最近読みましたが、解釈を変えるのがいけないと言い出したら最高裁が判例変更すること自体違憲になってしまい、最高裁の存在意義がなくなります。
法解釈というのは、これを支える社会実態の変化にあわせて解釈変更して行くことになっています。
古くはチャタレイ事件における猥褻性の判例・・判断が社会意識の変化によって徐々に効力を失って行きましたし、最近の事例では非嫡出子の相続分差別が違憲か否かに関する連続した最高裁の判例です。
何回かにわたって最高裁が合憲判断を繰り返してきましたが、昨年だったか遂に違憲判例となったものですが、これはまさに社会実態・法律用語で言えば「立法事実」の変化に合わせて、最高裁内での違憲を主張する少数意見が徐々に増えて来て最後に多数意見になったものです。
この判例の変化は、判事の人材が入れ替わったことによるのではなく、この間に社会実態の変化がかなり進んだことがこの判例定着性の評価になっています。
(判例評釈など学説は概ね・・と言っても1つ二つしか評釈を読んでいませんが・・非嫡出子差別に対する違憲判断に対して肯定的評価になっていますが、その理由とするところは社会実態・意識の変化をどう捉えるかと言う視点であってゲスの勘ぐりのような判事の個別的思想傾向を論じたものではありません。)
自民党内保守派は当初反発していましたが、思想信条の問題というよりは社会実態の問題とする上記学説の動向などを参考にしたらしく、最高裁の判断に従って法改正する方向に変更したと報道されています。
判例変更の理由をこのように読み解くと、10〜20年前から違憲を主張していた人が10〜20年前から正しかったのではなく、(むしろ当時の社会実態に合っていなかったとすれば間違っていたことになります・・)今の判決を獲得した人がジャストミートした・・正しいに過ぎないことが分ります。
逆に言えば20年前に合憲だと主張していた人が、今の時代・実態を見て(時流にあわせて)違憲と言うようになっても変節したことにはならないということです。
いつも喩える例ですが、野球のボールが届く前にバットを振れば空振りですし、その次の人がちょうど良いところに来たときにバットを振ってホームランになった場合、俺がそのタマを狙って早くからバットを振っていたが空振りしたと自慢しても仕方のないことです。
寒くなって多くの人がオーバーを着るようになれば、温かいうちからオーバーやセーターを来ていた人が正しかったと言えません。
非嫡出子相続分差別の違憲の判断では、現時点を基準にすることから、それ以前は合憲だったことを前提にその前の相続事例には適用がない(・・過去の相続事件が全部やり直しになるのではない)ことを上記判決では明記しています。
昨年暮れに大阪地裁判例ですが、地方公務員災害補償法に関する違憲判決が出ていますが、これも考え方は同じです。
遺族年金は女性の場合年齢制限難しに受給できるのに妻を亡くした夫の方は55歳まで受給権がないと言う規定の合憲性が問題なった事件です。
上記判例は、法制定時の昭和40年代の専業主婦率等当時の男女差と現在の社会状況を詳しく比較した上で、非正規雇用が多くなっている(その他育児休業が男子にも認められているなどいろんな制度変更が書かれています)現在では、男性だからと言って55歳まで受給権がないのは非合理な差別に当たると判断したものです。
この判例の思考形式も法制定時は合憲であっても、当時と現在では社会状況が変わっているから今は差別する合理性がないので違憲だと言うものです。
上記のように法解釈は社会実態の変化に合わせて変化して行くべきものであって、解釈を変えるのは恥ずかしいことではありません・・法は万代不変のものではないことを前提に、いろんな事件でしょっ中判例変更を求めて裁判しているのです。