愛国心と軍国主義1

今回のシリアへの軍事介入決断直前にオバマ大統領が議会の意見によって決めるようなことを言い出したので、グズグズになってしまったのですが,12日に紹介した戦争権限法が制定されていても、戦争開始に当たっては、事前説明が求められるだけで議会の同意まで要求されていません。
法で求められていないことまでオバマが言い出したので、やる気がないとなってグズグズになってしまったのです。
一定期間内に議会承認を得られる自信がなかったから・・とも言えますが、過去には兎も角対外戦争が始まった以上は一致団結して軍事行動を後押ししようとする雰囲気が一杯の国でしたから、やってしまえば何とかなる・・むしろ支持率が急激に上昇するのが普通でした。
今回のシリア介入には,やってしまいさえすれば支持率上昇とは行かないようなもっと根深い反対論があったからでしょう。
オバマのように議会の顔色を窺うのが普通になって大統領の一存で好きなように戦争出来なくなると、元々行政は議会が決めることですし大統領が政治決断すべき仕事はなくなります。
息子ブッシュはイラク攻撃やアフガン攻撃を命じましたが、彼は軍事そのものには何の能力もないので実際の権限は軍司令官に移ってしまいます。
その後は何の仕事もありません。
以下は2月12日現在のウイキペデイアのブッシュに関する記事です。
これによれば、戦争さえ始めれば支持率が急上昇するアメリカ国民気質・実態が分ります。
ベトナム戦争のように大義のない戦争でもやっている以上は、協力しないと非国民になるような雰囲気の国で、反対論を言えなくなるようです。
来歴
大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し・・・不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。
任期9か月目の9月11日、ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日に世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い[49]、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。」

彼は敬虔なクリスチャンで朝早い結果、夜9時ころには寝てしまう日課が報道されていましたが、実は孤独というよりは,戦争開始の決定以外に仕事がなかったからです。
大統領は議会出席権がないのと法案提出権がないので,(議員立法しか出来ません)積極的に内政に口出し出来ないのが原則です。
内閣提出法案がほぼ全ての我が国から見ると、行政府の内政に関する権限が全くないこと・・制度の建て方が戦争するか否かの決断以外には議会の言うとおりやれば良いんだということが分ります。
我が国では工場労働者一人一人の意見で改良が進むのに対して,アメリカでは研究者が研究するから現場はそのとおり何も考えずに仕事していれば良いという社会との違いです。
しかし,財政難になって来て最近戦争ばかりしていられなくなってきたので、最近では出身政党に働きかけて、オバマケアのような法案推進に精出すようになっていますが、議会に対して他所ものが口出しするようなもので(根回し能力欠如で)うまく行きません。
アメリカの場合、大統領選向けの戦略は別の専門家が立ててくれるし、当選するまでの選挙活動・・これも演出に従って振り付けどおり演説したり、ガッツポーズしたりするだけで日本の戦国武将のような複雑な内政は全く必要がありません。
当選後は(行政執行は完備した行政庁の官僚が実際にやるので)大統領の主な仕事は対外戦争をするか否かを決めることだというのですから、いつも戦争予定の敵がいないと大統領本来の仕事がない国ですし、支持率が下がって行く関係です。
戦争するくらいしか独自性ハッキ出来ないアメリカ大統領の職務を見ても、また、戦争を始めれば支持率が急上昇する国民気質を見れば,アメリカは文字どおり生まれつきの(アメリカ建国以来強大で侵略されることのあり得ない国で・・戦争大好きということは)侵略国家・軍国主義体質の国となります。
実際に建国以来短期間にもの凄い勢いで周辺を併呑して来たことを紹介しました。

対外権限と内政能力4(アメリカの場合1)

アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることが中心です。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むのに特化した能力で足ります。
大統領には、言わば複雑な内政利害調整能力が求められていません。
大統領に当選するのに求められる能力は、利害調整能力ではなく対抗馬に勝ち進む戦略の優劣だけ・・演出家の振り付けにしたがって演技する能力だけで足ります。
December 3, 2012「選出母体の支持獲得3と政治資金1」で紹介したように、大統領選の結果は資金力にほぼ比例すると言われていますので、資金集め能力が重要ですが、これも選挙参謀・演出家の演出に従って挨拶回りやパーテイをこなせば良いことで候補者自身の能力は不要です。
大統領選向けの戦略は別の専門家が立ててくれるし、当選するまでの選挙活動・・これも演出に従って振り付けどおりうまく演説したり、ガッツポーズしたりする能力があれば足ります。
対外的に勝ち進みさえすれば良いように見える、わが国戦国武将でも、家臣団の利害調整能力が不可欠でした。
以前上杉謙信の例で書いたことがありますが,戦国大名の多くはその地域内小豪族の連合体ですから、家臣団同士の境界争いその他利害対立が無数にあってその調整に失敗すると不満な方は離反してしまいます・・。
石橋山の旗揚げに破れた頼朝が房総半島に逃げて再起出来たのは、千葉氏の力添えによるものでしたが、千葉氏は元々平氏でしたが、相馬御厨の所領争いで平家がうまく調整してくれなかったので、平氏を見限って源氏についてしまったことを、09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」で紹介しました。
上記コラムでも書きましたが、戦闘集団である武士であっても利害調整能力がないと権力を維持出来なかったのです。
アメリカで大統領になるには、大統領選挙に勝ち進めば良いことであって,利害対立する双方を納得させる複雑な内政能力は全く必要がありません。
当選後は(行政執行は完備した行政庁の官僚が実際にやるので)大統領の主な仕事は対外戦争をするか否かを決めることというのですから、いつも戦争予定の敵がいないと大統領の仕事がない国です。
これを法的に見ておきましょう。
行政府の長としての権限は議会の決めた法律の執行でしかないので、言わば下請けでしかありません。
行政には一定の裁量の幅がありますが、その実務は官僚機構が実施するのとアメリカの場合,何でも裁判で決める社会ですから、行政の裁量権も狭いし,大統領が具体的に口出し出来ることが多くはありません。
日本では内閣の法案提出権が重要ですが,アメリカ大統領にはこの権限が一切なく,(日本とは違って議員立法しか認められていません)議会に出席する権利さえありません。
大統領の年頭教書演説が有名ですが、議会からの招待があって初めて行なえるだけです。
大統領が議会に何かを命じたり議案を出せることではなく,言わば「今年の抱負をみんなの前で言っていいよ」というだけです。
戦争権限は憲法上は議会の決定事項ですが、戦争兵器の近代化が進んで議会で議論している暇がないので,大統領が専権で開始出来るようになっていました。
(核兵器発射ボタンを考えれば分るでしょう)
これがベトナム戦争など無制限に戦争が広がったことに対する反発から,戦争権限法が相次いで制定されて1014年2月8日現在のウイキペデイアによれば,以下のとおりとなっています。

1973年戦争権限法(War Powers Resolution)[編集]
1973年に成立した両院合同決議であり、アメリカ大統領の指揮権に制約を課すものである。この法律はニクソン大統領の拒否権を覆して(両院の三分の二以上の賛成による再可決)により成立した。
事前の議会への説明の努力、事後48時間以内の議会への報告の義務、60日以内の議会からの承認の必要などを定めている

対外能力と内政能力3(御三家の資質差)

家康の多くの子孫・・越前宰相家など・内政能力不足で次々と失脚しているのに比べて、最も複雑系に優れた頼宣(彼は何と10男です)を、戦略上重要な紀伊半島の初代領主にしたのかも知れません。
紀伊半島は一朝コトあるときには、いつも反政府ゲリラの根拠地になって来た難しい場所でした。
古くは壬申の乱の大海人皇子が根拠地にしたことに始まり、中世には南朝の根拠地、真田幸村父子のよった九度山など(幕末には十津川を中心に天誅組が蜂起しました)しかも京都に近いし、ココを占領されると本州が二分されるので戦略上重要な地域でした。
アメリカ軍も本土上陸作戦として南紀・潮岬からの上陸ルートを策定していたと記憶しています。
紀伊家に対して尾張65万石は濃尾平野中心で,言わば単純経済構造で単純内政が可能ですから,単純な主張で突き進むには勢いが良いのですが、紀伊徳川家のようにクジラ漁もなければ林業もないし、伊勢湾の漁業も関係がありません。
紀伊家では徳川期にみかんに始まって南高梅で知られる梅の銘柄や備長炭やクジラ漁その他かなりの特産品/新産業を生み出しています。
金山寺ミソに始まる醤油醸造も紀州発で全国に広まりました。
現在のキッコーマンや銚子周辺の醤油工場は紀州からの移住で発展したものです。
関東に進出した醤油製造は大規模化して行きましたので,その延長で世界企業になっていますが、今でも紀州本場に残っている醤油製造は古来からの製法を守って高級料亭などに卸してると言われます。
九十九里浜の底引き網漁も紀州からの技術導入でした。
江戸時代に日本全国の農業や木綿や果樹園芸等の生産性向上に大きく寄与したホシカも紀州から来た豪族が開発した銚子漁港を根拠地にしたイワシ漁の成果によるものです。
明治以降で見ても現在に連なる三越(三井グループ)や松坂屋,イオングループは全て紀伊徳川家領域であった伊勢の出身ですし,真珠養殖で日本の有力産業にしたのも伊勢の人です。
一般には何故か紀州家と言われていますが、紀伊徳川家は伊勢の国のかなりの部分を領地にしていたので紀伊家と言うべきでしょう。
尾張徳川家では単調な領土のために内部調整訓練が少なかったことから複雑系人材が育たなかったことが、内部利害調整能力を必要としてた将軍継嗣争いに敗れた原因ではないかと思われます。
(信長,秀吉も単なる個性の問題ではなく,この環境から逃れられませんでした)
吉宗は将軍就任後現在に連なる官僚制の基礎を作り、判例集の整備を行なうなど内政・・利害調整に力を注いだことは偶然ではありません。
判例集・・公事方御定書については、12/16/03「公事方御定書1(刑法4)(江戸時代の裁判機構1)」以下02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」〜10/03/06「公事方御定書の刑罰8(追放刑はどうなったか)」まで飛び飛びに連載しました。
判例に従って政治をするということは、一種の法治国家思想が彼によって宣言されたことなります。
尾張徳川家はずっと冷や飯食い・・野党的存在に徹して何かと楯突くことしか出来ないまま徳川時代をに過ごして来て、幕末徳川家が賊軍になってから漸く出番が来て反徳川=単純な勤王論の結果,官軍の征討総督代理か何かの重職についています。
しかし、(江戸城無血開城は西郷隆盛が決めたように)格式が高いから薩長に担がれていただけで,維新がなってからの明治政府〜現在まで人材が出ていません。
御三家の盛衰を見ると水戸家は家業とも言える勤王思想の中核でしたが、幕末に慶喜を将軍に出してしまったことから賊軍の将の実家として明治政府から見れば優遇する訳に行かない冷遇状態に置かれてしまいました。
勤王思想の震源地であり,桜田門外の変から始まって天狗党など維新の地殻変動・起爆剤として最大の功労のある水戸家が棄てコマにされてしまったことになります。
長い間の内紛等で人材が枯渇したとも言えますが、濃尾平野同様に単純経済構造であることから,(300年間に水戸偕楽園に梅林を作ったくらいが自慢では・・)人材層が薄かったのではないかとも言えます。
御三家では水戸と尾張が冷遇されて来た反発から野党的抵抗勢力・批判勢力の中核になっていたに過ぎず、イザ勤王の時代が来ると人材が薄かったので重きをなすことが出来なかったのです。
最後の将軍慶喜は一橋家に養子に入りましたので,形式上は紀州家の係累になりますが実家は水戸家出身です。
慶喜自身有能ではあったでしょうが、利害調整能力が低かったこと・・人望がなかったことが、大政奉還で主導権を握るつもりが逆に小御所会議でのクーデーターに連なったと見るべきでしょう。
現在連載中のアメリカの指導力低下と人材のテーマと重なりますが、慶喜は山内容堂の献策を入れて大政奉還しても自分が諸候会議で主導権を握れると思っていたのです。
彼の交渉能力は幕府の大権をバックにしていたに過ぎず、大権を返上して諸候中の有力者程度に格下げになると,モロに個人人格・交渉能力次第になってしまいました。
権力のゲタを履かない本来の政治交渉能力欠如が諸候の人望を失って行った結果があって,小御所会議でのクーデター(幕府領地返上命令決定)に繋がったと見るべきです。
俊秀と言われ利害調整能力の低い(幕閣内でも人望がなかった)慶喜が将軍職を継いだことが、徳川政権滅亡を早めたことになります。
民主党は高学歴者が多いのですが、政権を取ってみると利害調整能力欠如が致命傷になったのと同じです。
尾張と水戸の人材の薄さは地域の産業構造にあったと見るべきです。
紀伊家は直前に将軍家茂を出しましたから、まさか江戸城攻撃の官軍の総大将にはなれませんでしたが、賊軍になるのを免れて言わばうまく動乱期の危機を切り抜けました。
明治に入って紀伊家からは 陸 奥 宗 光(1844~1897のような外交巧者が出ているのは、偶然ではないでしょう。
日本では古代から(大和朝廷の始まりから,諸豪族の連合体であったというのが私の推測です)平安期も朝議は合議で行なわれて来たことを何回も書いて来ましたし、戦時を除いて安定期には・・ボトムアップ社会ですから、利害調整能力が最重視されてきました。
(戦時でも,長篠合戦直前の織田徳川連合軍で信長が主催した軍議が有名なように、政権創業期の対外能力の有無が価値観の基準になっていた軍事作戦決定のときでさえ、諸将合議で決める習わしでした)

対外能力と内政能力2(吉宗1)

8代将軍吉宗については、質素倹約と軟弱政治からの脱却・・武の再興ばかり物語的にはもてはやされますが、彼が中興の祖となれたのは、国内屈指の複雑な政治状況にあった紀伊半島の大半を施政下において来た初代頼宣以来三代にわたる利害調整能力の高さ・統治経験が買われたと見るべきです。
江戸幕府創設後武断政治から文治政治への移行と言っても、当初は天海僧正のような宗教・哲学者の意見に頼っていましたが,・・・・これでは具体的政策決定に役立たないので儒学を取り入れて脱宗教になって行った経緯を、03/14/08「政策責任者の資格9(宗教の役割2)」等で以前書きました。
綱吉や家宣までは、林大学頭や荻生徂徠、論争の鬼と言われた新井白石(正徳の治)が重きをなしていたことがその象徴です。
金の含有量を減らして発行していたのを改めた貨幣改鋳問題はその最たるものですが,今で言えば量的緩和は紙幣濫発→紙幣価値低下になる・・政府の信任にかかわるので許されないという道徳論・伝統的経済学者の意見によったのが、新井白石となります。
しかし学者の意見では理論が一貫するものの、複雑な利害調整・・政治判断までは、出来ません。
学者間の自由な論争は必要ですが、経済に対して専門的識見のない儒教学者の道徳的意見が政治決定に採用される仕組みは問題です。
赤穂浪士の義挙に対する裁断に荻生徂徠の意見が通ったと書いたことがありますが,裁断するのは綱吉であるとしても、学者の意見がモロに採否の対象になること自体問題があると言う意見で書いています。
まして、儒学は経済・・商取引に関するルールではない・・農業社会ムキ道徳ルールですから,商取引が発達した江戸時代中期以降社会ルールの参考にはならなくなったことを、04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」で書いたことがあります。
上記コラムで書いたとおり、日本は最早中国から学問を輸入しても商品交換経済に入った日本にとって有用な知識をえられなくなった・・もっと進んだ社会に入って行ったのが、吉宗以降の社会状況です。
失われた20年と言われますが、そのころから日本は欧米先進国の未経験の領域に先に入って行ったので、何かテーマがあると直ぐに「欧米では・・・」と訳知り顔で講釈する学者の意見が役に立たなくなったのと似ています。
法と政治の分離・・(裁判はプロに任せるとして・・)経済学と政治との分離・・(金融政策はある程度経済のプロに任せるとして・・財政政策までは任せない)等等の必要が高まったのが吉宗以降の社会でした。
吉宗以降学者の出番が減ったことを見ても、(現在政治では、経済学者や政治学者の意見を参考にする程度の関係になって行きます)政治が具体的利害調整に移って行ったことが分ります。
「東大教授やノーベル賞学者の言うとおり政治をしていればいい」(自動運転で足りれば政治家が要りません)と今では誰も思わないでしょうが、このような時代が吉宗から始まっているのです。
紀ノ川沿いの歴史地図を子供の頃に見た記憶がありますが,紀州随一の穀倉地帯にも拘らず根来寺領や高野山領などが入り乱れているのに驚いた記憶があります。
根来衆と言えば歴史に残る大ゲリラ集団ですし,外に有名な雑賀衆も和歌山城の直ぐ近くに控えている関係です。
高野山は言うまでもなく大名と言うより武門とは別格で、それぞれややこしい関係のママ幕末まで来ました。
熊野や勝浦方面はこれまた有名な九鬼水軍の根拠地でしたし、(九鬼氏は遠くへ追い払われましたが・一族郷党関係はそのまま残っています)熊野詣で有名な那智大社関係も大名家にとってはややこしい関係です。
外に本居宣長の出た伊勢の国もその領地ですが,ココはまた蒲生氏郷の築城した松坂城をそのまま受け継いでいて,名古屋から行くと松坂の先(紀州寄りに)に伊勢神宮があるので,別格の伊勢神宮も抱え込んだ関係になります。
言わば紀州徳川家は、群雄割拠の精神状態のままその上位機関(伊勢神宮や高野山に対しては上位とは言えないでしょう)として落下傘部隊のように舞い降りた大名家でした。
55万石にしては地図上の領土が広いのは、平野部が少ないことと内部が虫食い状態だったことによるのでしょう。
吉宗が将軍位を獲得出来たのは,初代徳川頼宣以降このややこしい政治を見事にこなして来た実績・・内政調整能力にたけていた点が重視されたものと見るべきです。

対外能力と内政能力1

06/08/10「(1)政権交代と実務能力」で少し書きましたが、創業と守成の区別は、言わば創業は対外戦争に勝ち進むことですが、守成・統一後は国内の利害対立の処理能力の巧拙に移ります。
国内・・勢力圏内の利害対立の処理がうまく行かないと、直ぐに不満が起きて政権が持ちません。
対外的な交渉はどちらが正義に近いかの競争よりは、先ずは強い方が勝ち・・武力をちらつかせて要求をのませられますが、国内利害対立の処理は権力だけではどうにもなりません。
対日戦争では、勝った方が自分の悪いところを全て日本に押し付けて外交上の勝ちをきめました。
国内利害対立の解決は権力で押し付けさえすれば良いのではなく、公正な判断やタフな交渉能力が要求されます。
(これを比較的無視し易い政体と言うか、そう言う能力のない社会では,政権奪取後、専制君主制〜問答無用形式の恐怖政治・ロビスピエールやフランスジャコバン〜ソ連の粛清政治〜中共政権〜現在の北朝鮮体制あるいは軍事独裁体制になりますが、民主的と言われる大統領制とどのように違うかを以下見て行きます。)
創業と守成の違いを06/08/10「(1)政権交代と実務能力」のコラムで後醍醐帝と足利政権の違いで書きました。
アメリカの大統領制は、国内政治の利害調整は(法案成立までの調整は)議会でやり、(法成立後は)裁判所(どんなことでも裁判で決着を付ける国ですから行政裁量の余地が我が国よりも小さい)が行ない、大統領はその結果を執行することと対外戦争をすることだけです。
ですから議院内閣制のように利害調整の経験がない・・利害調整に長じた人材が、大統領になる制度ではありません。
言わば創業・・対外的大統領選に勝ち進むだけ・・戦国時代で言えば、天下統一に勝ち進むだけの能力で足ります。
戦国大名も天下統一までの長年の過程で部下への気配り・内政が必要でしたが、さしあたり迫って来る敵と戦い・・対外戦勝利が第一ですから、勝ち進めば恩賞が多いので不満が簡単に解消出来ます。
信長〜秀吉はこのタイプに特化していたので効率が良かった分、恩賞に当てるべき新規獲得領地が減って来ると、(耐えざる拡張主義に走らないと)人心掌握が難しくなります。
後醍醐天皇や新田義貞・楠木正成などは、朝廷復権というイデオロギーは確かでも実務・・内政訓練を受けていない点が,北条氏を倒して権力を握ってみると利害調整能力欠如からたちまちのうちに人心離反を招いてしまった原因です。
成り上がりの秀吉は対外拡張一本でやれて効率が良かったのに対して,拡張が止まると過去の成功体験が役に立たないので,内政に苦労し始めます。
家康は、子供のころから家臣団の統制に苦労して来た経緯があって、(これに比例して必要な人材も育っていたので)内部調整能力が高かったことが徳川300年の基礎になりました。
徳川300年は対外戦争能力ではなく、内政・利害調整能力を問われた時期でした。
家康の多くの男子の中で戦功のあった結城秀康等武功組の子孫が次々と失脚して行ったのに対して、軍功の低い秀忠が将軍になり、複雑系の10男頼宣が紀伊徳川家の初代になれたのは偶然ではありません。
大名家で言えば複雑系能力の高い細川や加藤清正が生き残り,単純系の福島正則が失脚したのも同じ基準になります。
物語では如何にも武断派が利用された上で切られた・・家康は腹黒いというストーリーですがそんなことではなく,平和になれば乱暴なだけではどうにもならなくなったからです。
この争いが石田三成と武断派の争いで、(内政中心になって来ると武断派は能力がないのでないがしろにされ勝ちですから面白くなくなって来たのですから仕方のないことでした)これに家康が乗じて豊臣家を乗っ取ったのが歴史の流れです。
徳川家は身内を折角越前120万石の大守にしていても、その子孫をドンドン失脚させていますが、家康は自分の生きているうちは義理があると言って、武断派から文治派への入れ替えを慎重にやったことが成功の秘訣でしょう。

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