マッカーサーの功罪3(軍政の撤回1)

日本人にとっては、天皇が人間宣言しようとも・・憲法の文言から「神聖不可侵」の文言が消えようとも、国民の心には「神聖不可侵」の天皇が今も続いています。
これの顕著な事例が韓国前大統領による天皇侮辱発言に対する日本全国民の強烈な拒絶反応であり、・・これには左翼もマスコミも何の反対も出来ないほどの大きなリアクションでした・・。
最近では、参議院議員山本太郎氏が秋の園遊会出席時に天皇陛下に対して直接手紙を差し出した非礼行為に対する大反響でしょう。
そのときに書きましたが、マスコミが表向き論じている政治利用の問題ではなく、国民が驚いたのは直接差し出すという非礼行為だったので、山本氏も政治利用に関してはいろいろ言い訳していましたが、その内黙ってしまいました。
およそ神にまします天皇に対しては、古代から伝奏を通してしか発言することすら許されないしきたりです。
人間宣言を受け入れないまま頑張っていて、仮にもアメリカ軍によってその辺の泥棒のような辱めを受けて絞首刑に処せられたとなっていれば、その衝撃は2011年の東北大震災の比ではありません。
今になるとそんなリスクはなかった思っている人が多いでしょうが、サンフランシスコ講和条約時にソ連が戦争の最高責任者である天皇の責任を追及しないのはおかしいと言い張っていたものの、アメリカが相手にしなかったことでことなきを得ています。
日本左翼によるソ連を含めたいわゆる全面講和論ですと、天皇責任論(を蒸し返すのが主目的であったかも知れませんが・・)が正面の議題なっていたことになります。
天皇機関説については、06/07/03「天皇機関説事件とは1」以下で紹介しました。
象徴天皇制・・これが実態であると日本側で必死に説いたことによって、マッカーサーが納得し、天皇制を維持を決断するのに成功した決め手になったと思われます。
戦前から天皇機関説が学界の通説であったことが、GHQを天皇制維持方針に転換させ、天皇責任論を修正させた原動力になります。
彼は赴任後直ぐに天皇制が戦争を起こした原因ではなく、天皇は民心の象徴に過ぎないし、天皇制をなくしても日本人の心を変えることは出来ないと理解したと思われます。
それに赴任してみると人民と天皇の関係が分って、天皇の戦争犯罪を追及して実行すると民族間の恨みが半永久的になって、将来日米関係が取り返しのつかない関係になることを理解したでしょう。
(11月1日から2日に掛けて日本民族は謝ってさえくれれば許せる民族だとは書きましたが、天皇まで言いがかりで処刑されたとなると・・傷痕の深さが半端ではなくなります。)
日本人は戦犯裁判はでっち上げであると主張していることと、この報復をアメリカに対してするべきということと同次元で主張している人はごく少数・・皆無に近いと思います。「民族のために犠牲になった人を尊崇したいという心を邪魔するな」というだけです。
戦国武将が城兵の助命と引き換えに腹を切った場合、その城主を懇ろに弔うことと敵将を恨むこととは、まるで次元が違います。
敗軍の将を辱めるどころか,逆に神にして祭る智恵が行き渡っているから、日本人は過去を水に流して恨みをいつまでも引きずらずに結果的に一体感を強く持って来られたのです。
日本人は仕返しするために靖国神社にお参りしたいと言っているのではありません。
この点をアメリカが思い違いして,裏で妨害していると却ってこじれてしまうリスクがあります。
アメリカが中韓を唆して虚偽報道を裏で煽り続けていると日本人が感じるようになりつつありますが、その勢いが余って、アメリカの方がもっと悪いことをして来た・・報復感情が高まる方向に行く心配をしています。
マッカーサーは占領後アメリカや西洋あるいはその他の国のように、日本では指導者に盲目的に従う国ではない・・天皇が戦争に引っ張って行ったものではないことが直ぐに分ったようですから、彼に向かって一生懸命進言した日本人関係者の努力もさることながら、彼の理解力の高さ・公正な姿勢を理解し評価すべきです。
実際彼はアメリカ議会で、日本がいかにして開戦に追い込まれて行ったかの実態を克明に証言し、日本への理解を得るための大演説をやっています。
そこまで彼を親日派に転換させたのは(国難に際して国内分裂がなかった)日本の官民挙げての暗黙知による努力の賜物です。
マッカーサーの離日に際して、期せずして沿道に見送りの日本人が溢れたことを紹介したことがありますが、暗黙知ほど大切なものがありません・・。
支配体制が崩壊すれば、普通の国では分裂どころか無秩序状態・内部対立激化するのが今でも普通です。
最近でもアメリカのミシシッピー下流域での大洪水では、略奪が相次いで軍が出動していました。
殆どの国では大災害その他の理由で支配体制が崩壊して、その地域の警察秩序が臨時に喪失すると、直ぐに略奪がおきます。
バルカン半島での長年の(クロアチア等での)民族間戦争も、言わば強力支配権力崩壊後に生じた空白・・集団間の無秩序化が生み出したものであったと理解出来るでしょう。
この後で書いて行くアラブの春以降のアラブ社会の混乱も同じです。
これに対して・・2011年3月の東日本大災害では、警察権力どころかすべてのインフラ機能が全面喪失する中でも、逆にみんなが助け合い譲り合っている社会構造に世界中が驚嘆したばかりです。

マッカーサーの功罪(天皇制の維持)2

城主が責任を取って腹を切るのは日本人にとって、潔い行為ですが、戦犯・・犯罪人呼ばわりされて囚人服を着せられての処刑は必要以上に日本人が辱めを受けたという感情を刺激しました。
アメリカにすれば、犯罪行為を設定しないと処刑理由がないので犯罪人にしたかったのでしょうが、日本からすれば、こんな汚名を着せられること自体(高位高官のものが泥棒のような囚人服を着せられて処刑されたこと自体が大きな侮辱です)が言語同断の武士道に反しした行為となります。
赤穂浪士の言い分の1つに内匠頭の官職のママで切腹したのに、下郎並みに庭先で切腹させられたことが恨みの1つにされていたように思います。
この理不尽な処刑を受けいるしか野蛮なアメリカによる日本民族に対する苛烈な支配を免れ手段がなかったとすれば仕方がないことですが、年数の経過で敗戦の余燼が冷めれば、なおさら犠牲に成り代わってくれた人に対して鄭重にお祭りしたくなるのが当然です。
マッカーサーの評価に戻りますと、彼の評価はルーズベルトの戦争政策・・国内宣伝と彼が赴任後に一定の報復処理が終わってから気が付いて修正した・・修正出来る限度で実施した政策とを分けて考える必要があります。
マッカーサーは現場責任者でしかなく、本国の指令を勝手に変えられないので、その限度での評価をする必要があります。
彼は赴任直後に直ぐに天皇制維持の必要性・・日本人の心の象徴であると理解し、本国の理解を求めて努力してついにこれを成功させています。
(日本の官僚や国民はしたたかに彼の抱き込に成功したとも言えます)
彼は背の高い自分と天皇と並んだ写真を発表して日本国民の自尊心を多いに傷つけた場面ばかり報道されています。
この写真は日本人にとってはインパクトが強過ぎるので、今後数百〜千年以上にわたって(蒙古軍襲来時の残虐性は未だに語り継がれます)民族の尊厳を踏みにじられた負の歴史の象徴として残って行くことでしょう。
天皇と並んだ写真発表は、天皇制維持に舵を切った彼にとって、本国・アメリカ政府を納得させる高等戦術だった可能性がありますので、必ずしも日本人に敗北感を植え付ける目的ばかりだったとは言えません。
この写真を種に批判することも可能ですが、それよりは、天皇制を残した功績こそを日本民族は評価すべきです。
話が変わりますが、現憲法は占領軍に押し付けられたという批判が大きいのですが・・占領期には日本は隷属していて憲法に限らず全ての法令はGHQの(事実上の)同意がなければ施行出来ない状態でしたから、大本の憲法自体が占領軍・・背後の米政府の承認なしに改正出来なかったこと・・押し付けられた憲法であることは議論の余地がありません。
サンフランシスコ講和条約を日本は無効宣言出来ると書いたのと同様です。
ココで重要な論点は、サンフランシスコ講和条約の無効を宣言した方が良いかの判断が必要なのと同様に憲法の内容が日本国民に納得出来るものであったか否かでしょう。
派手に抵抗するばかりが能ではないことを中国の岳飛の例を上げて、9年前の08/25/04「幕末の政治模様2(井伊大老と安政の大獄)」で書いたことがあります。
最近では、2013-10-29「アメリカの神道敵視政策7(日本人奴隷化3)」以降にも書いてきました。
日本の官僚・政治家・・ひいては庶民にいたるまで心を一にして(堪え難きを耐えて)マッカーサーと対決して決裂する道を選ばずに、柔軟に日本精神を導入し、残すことに腐心してきました。
我が国始まって以来・・あるいは少なくとも摂関政治以降の歴史を虚心に見ると、象徴天皇制はまさに実態に即していますし、天皇制を象徴として残せたのは交渉に当った政治家や官僚の大成功と言うべきでしょう。
せいぜい譲ったのは、天皇の人間宣言くらいですから、何らの実害もなかったことになります。
(天皇も病気し、寿命が来れば死亡することをみんな知っていますし、誰も本当の神様と思ってはいなかった・・精々比喩的表現でしかないのを知っていますから、人間宣言は実態に合わせただけです)
明治憲法での天皇制の方が勇み足と言うか、藤原氏が実権を握って以来天皇には実権がないのに(明治維新後も実態は同じでした)これをあるかのごとく強調し過ぎていた面で不正確でした。
実態を研究していた憲法学では有名な(美濃部達吉の)天皇機関説・・これが軍部に批判される前には通説でした・・出て来ていたのですが、これを軍部が否定していたことがアメリカによる天皇責任論の原因です。
贔屓の引き倒しと言う言葉がありますが、何が後でマイナスに作用するか知れません。
まさか軍部が後で天皇戦犯責任論の根拠とされ、後に戦犯として絞首刑になる危険を招く意図があったとは思えませんが・・・。

マッカーサーの功罪(天皇制の維持)1

日本人の万物を慈しみ誠実な精神は崇高であって、そもそもこの精神を潰す必要がないとマッカーサーは理解したらしく直ぐに占領政策を軌道修正しました。
初期の神道指令等(アメリカ本国=ルーズベルトの意向そのままだったでしょうから)対神道弾圧政策はかなり厳しいものでしたが、徐々に神道弾圧・規制が緩んで行きます。
進駐した大量の米兵(最大で43万人+軍属)が実地に日本人の善良な国民性に接したことによって、米兵の裾野から日本人理解が進んだことによる影響大きかったと思われます。
本当は米国本土でもそんなことくらいは分っていたのですが、異人種の「日本をやっつけろ!」という強烈な人種差別思想・・政治の力で、そうした意見は押しつぶされて、如何に日本が悪いことをしているかと言う意見・プロパガンダばかりが幅を利かしていたのです。
マスメデイアというのは、一定方向に向かうと世論迎合・それ一色になる傾向があるので怖いものです。
マッカーサーに対する毀誉褒貶は一杯ありますが、彼は占領軍司令官として赴任した以上、日本侵略軍代表としての役割を果たしたことは相違ないので、その限りで日本人が酷い目にあった張本人として日本人から批判を受けるのは当然です。
また彼自身の個人的報復感情によって、敵将であるマレーのトラと言われた山下奉文大将を根拠のない理由で無理矢理に処刑しています。
降伏した将軍を処刑するのは国際法違反ですし、まして軍服の着用すらも許さず惨めな囚人服を着せて出廷させて辱めを与えて(銃殺ではなく)絞首刑にしたのは、単なる殺人罪でしかありませんから、こうした面で批判を受けるのは当然です。
しかし、彼は厚木基地に降り立ってから短期間で日本に軍政を布く布告の発令予定を撤回しているように、(そのときのやり取りでも決して日本人を奴隷化するつもりはないと彼は言い訳していますので、語るにオチルと言うかアメリカでは日本を奴隷化することは既定路線だったのでしょう)それなりに正義感・・真実を見る目が正しかったように思えます。
彼は軍人として日本が宣伝していた「鬼畜米英」の逆バージョンでアメリカ政治家・マスコミによる対日プロパガンダを信じていた・あるいは(個人的報復感情に溺れて)信じようとしていたのはある程度仕方がないことです。
如何に日本人が残虐非道であるかの宣伝に正直に洗脳されてその気(彼はフィリッピンを追われた個人的報復感情が中心だったでしょうから、不純であった点はルーズベルトと同罪ですが、・・)になって、日本に赴任していたこと自体、彼の責任ばかりとは言い切れません。
マッカーサーその他アメリカ関係者の強烈な報復感情を満足させるには、一定限度の高官が民族の代表として犠牲になって宥める必要があった・・結果的に極東軍事裁判が日本に有利に働いた側面も無視出来ません。
言わば、当時日本全体で誰かが犠牲にならなければ収拾がつかない国際状況であったことは否めません。
日本全体で暗黙の合意として、天皇に責任が及ばないようにするという暗黙の了解で、已むなく極東軍事裁判を受け入れたと思われます。
米軍は天皇責任を問わない約束を守ったのに今更軍事裁判が酷いと言われると、逆に日本の方がルール違反と思っているかも知れません。
日本側としては天皇に戦争責任が及ばないようにする・・無茶な抵抗をして日本民族総奴隷化されてしまうリスクを回避するために,アメリカの理不尽な要求もある程度満足させる必要があったことは確かです。
アメリカとしてはその引き換えに生け贄を出したのだから仕方がないだろうという気持ちなのでしょう。
しかし、強盗に命とお金支払約束とどちらを選ぶかと言われて,命惜しさに一定金額を払う約束をしても、後でこの約束は無効・違法を言えるのと同じです。
この取引は、占領下の脅迫によるものですから、2013-11-3「日米平和条約の不存在」に書いたように、日本はいつでも無効宣言出来る法的地位にありますから日本が実質的なルール違反していることにはなりません。
日本は無効宣言まではしないまでも、天皇や民族が奴隷化される代わりに犠牲になった首脳部の人たちに(この意味では祖国を守るために特攻機で散って行った若者に対するのと同じです)尊崇の念を抱き篤く弔いたいのは当然です。
城明け渡しに際して城兵全部の生命保障と引き換えに腹を切った城主を弔うのは、古来当然のことでした。
占領政策のテーマに戻しますと、軍事裁判→処刑強行によってアメリカ側の報復感情がある程度満足したからでしょうか?
その後は、ある程度公平に日本を見るようになったと思われます。

日本人の識字率・民度2

識字率という概念自体も違っています。
多くの国での識字率は、日本と違って自分の名前が読めるか否か程度で今でも判定基準にしていますが、日本では江戸時代の最低の庶民でもいわゆる読み書きそろばんが基本的能力判定でした。
その結果、一定階層以上・・町民でも一定の文化・俳諧や川柳・小唄端唄など文化をたしなむのが普通の社会になっていたのです。
日本の町民・・正確にはブルジョワジーのことらしいですが、そこまで行かないその日暮らしの職人らの生活する長屋の管理人をしていた大家でも一通りの和歌程度を知っているものでした。
実態を表しているかは不明ですが、有名な落語・・「千早ぶる神代も知らず・・・」と言う和歌を訳知り顔で講釈するやり取りが流布していたことからも明らかです。
太田道灌の故事に有名なように,片田舎のあばらやに住む娘でもちょっとした古歌くらい知っているのが普通のたしなみでした。
庶民レベルの高さ・・社会システムが、1450年ころの太田道灌から日本では世界最先端で進んでいたことが分ります。
我が国文化人が現実直視しないで西洋の図式を当てはめようとする傾向は、現実直視だと折角西洋の文化を学んだ自分と一般国民とを差別化出来ないことによるのではないでしょうか。
実態を見ない点では、ヤンパン思想に毒されて誇大妄想的歴史を空想している韓国文化人と似たり寄ったりで韓国ばかりバカにできません。
どこの国でも、書斎にしかいない文化人と称するものの地位が高すぎると現実遊離になり易いということです。
上記のとおり、日本の識字率が昔から高率ですので、誰もが言わば知識人であり文化人でしたから知的エリートとの差が低いことから指導者・エリートという概念が我が国では育ちませんでした。
日本の指導者の資質が低いとマスコミが自虐宣伝しているのは、庶民の多くが文字も読めない欧米式社会を前提にした間違った意見であると、このコラムで何回も書いてきました。
明治以降、舶来知識を振り回せば優越出来た時代が続き、戦後もアメリカではこうだという意見が幅を利かしたのは、この時期に限定して欧米との知識差(文化力の差ではありません)が大きかったからです。
しかし、欧米に対する情報格差があっても我が国では古代からそれほど能力差のない社会ですから、現実遊離した意見を鵜呑みにする習慣がありません。
研究者も現場にいる人の工夫を大事にする習慣・恊働作業によって、(現場を知らない大学の研究よりは企業研究の方が世界先端技術の開発に向いているのはこの帰結です)現在日本社会の高度化が成立しています。
米軍が日本を占領して現実の日本人の多くに接してみると、日本精神は日本の学者や西洋の研究者が理解しているように上からの命令で愛国心が出来ているものではなく、キャップの天皇制を廃止さえすれば良いものではないことが直ぐに分ったと思われます。
何十万(最大で43万の将兵プラス軍属)という大量の将兵が日本に上陸したことによって、マスコミや文化人のでっち上げた情報ではなく、多くの将兵が日本人とジカに接することになりました。
日本人と多くのアメリカ軍人・軍属がジカに接するようになると、日本国民の精神は「万物を慈しむ心」誠実さに満ちあふれ、アメリカでルーズベルト大統領によって宣伝されているような天皇の命令で極悪非道なことをするような人ではないことが多くの将兵に直ぐに分った筈です。
近年、中韓両政府がロビー活動で大金を使って欧米の政治家を籠絡し、マスコミを抱き込んで日本に対する悪宣伝に努めていたのは、アメリカや西洋では(庶民レベルが低くて)マスコミや指導者さえ抱き込めば国論が決まる社会だからある程度有効性があったからです。
しかし、大量の中韓両国人や日本人が世界中に進出して居住する時代が来ると、マスコミや政治家を抱き込んで虚偽宣伝している中韓両国人の日常行動と日本人とを具体的に比較出来具体的に知るようになってきました。
今では、現実の中韓両国人と日本人を直接知っている時代になっていますから、マスコミ宣伝よりも現実体験に基づく庶民情報(ネット)が重要になって来たので、韓国による虚偽宣伝の有効性に疑問符がついてきました。
この結果、韓国が大統領が前面に出て宣伝しなければならなくなるほど、焦って大騒ぎを始めたように思われます。
ネットの発達で情報独占がなくなったこともあって、今後は日本だけではなく世界中の文化人・指導者・マスコミの地位が大幅に下がって行くでしょう。
米軍の占領政治に戻りますと、日本人の道徳観や自然観は草の根からわき上がっている民族の心であって、上からの押しつけではありませんから、神道を非難し天皇制さえぶっつ潰せば道義の基準が変更出来るものではありません。
そもそも神道の精神は、ルーズベルトが宣伝していたような「悪の教え」ではなく誠実さ・万物を愛する心ですから、悪の帝国と宣伝されて信じ込んで日本を占領してみたら、その善良さに多くの将兵はびっくりしたでしょう。
日本民族は古代から自然の営みを細かに観察して愛して来たのですが、その片鱗の1つとしてやや牽強付会の感がありますが、万葉集の一首を紹介しておきましょう。
この時代から、春の方が良いのか秋の方が良いのかを歌合わせで楽しんでたことが分ります。
口角泡を飛ばす激論ではなく和歌を歌い合って競っていたのですから、我が国は古代から優雅な社会です。

万葉集
巻第一・16 額田王が春秋の優劣を論じた歌

 冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山ぞわれは

額田の大君は天智天皇と天武天皇の両方の愛人として有名ですから、西暦660年前後の歌ですが、その約600年程後の後鳥羽院のころまでには侘び寂び思想が発展していて  「秋は夕暮れ」という評価が定まっていました.
これを逆転の発想で春の夕暮れも良いじゃないかと歌ったのが、新古今和歌集所収の後鳥羽院の歌です。

 「見渡せば山本かすむ水無瀬川夕べは秋と何思いけむ」

更にこの歌を下敷きにして室町時代の宗祇らによって、承久の乱で隠岐の島に流された後鳥羽院の250回忌追善するために水無瀬三吟百韻(1488年(長享2)正月22日)が巻かれています.
我が国では、秋が良いか春が良いかのテーマが千年単位でずっと続いていたことが分ります。
私も春というより新緑(額田の大君の歌も茂みがあって入って行けないと歌われているので今の春というよりは新緑を前提にしている感じです)も好きですし、紅葉も好きですからどちらかキメロと言われると迷いますね・・。
ただし、1488年の水無瀬三吟では「雪ながら山本かすむ夕べかな」で始まっていて2月の情景です..,。

政府と国民の分断策(日本人の識字率・民度1)4

日本人は結婚であれ投票であれ、何であれ、個々人の心には親でさえも踏み込まないのが古代からの習慣です。
結婚は文化の融合ですから、同格の結婚が一番文化摩擦リスク回避には無難ですから結果を見れば家と家の結婚のような結果になりますが、親が頼んでも個々人がイヤだ言えばまとまらなかった点が重要です。
文化人は頭でっかちに理解しているので、西洋方式を日本に当てはめようとして無理に西洋式の階級社会を擬制し、信教の自由がなかったかのように教え、現実直視出来ないのです。
社会組織でも恰も西洋式の大地主と奴隷的小作人を措定していろんな物語が作られていますが、実際に我が国で大地主が生まれたのは明治の地租改正と同時施行にかかる江戸時代からの農地永代売買禁止令解除以降の短期間のことでしかないのです。
この弊害のために戦後の農地解放によって、農地売買が再び許可制になっています。
この辺は04/09/04「地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)」前後のコラムで紹介しています。
信教の自由の大前提・・大名も信仰の内心にまで踏み込めない前提があってこそ、一向一揆などで戦国大名が悩まされていたのです。
歴史では、士農工商を階級制度と大げさに習いますが、一応の区分けでしかなく、江戸時代に活躍したいろんな人を見れば明らかなように、階級間の相互乗り入れ自由な緩い社会でした。
戦後イヤっと言うほど日本人は集団主義で個性がないと言う自虐史観を刷り込まれてきましたが、日本軍が最後まで戦場から逃亡せずに戦い抜いたことがアメリカでは脅威だったからです。
日本人が庶民・末端に至るまで集団での行動を一糸乱れず行なえるのは・・ゴミも散らさないし、秩序だって混雑の中で行動出来るのも・・規律を守るのは個性がないからではありません。
逆に、民族の最下層に至るまでレベルが高いし、民族一体感ひいては環境全体を愛する公徳心が強いことによるのです。
米軍は日本軍の強さを教養がないから命令に対して盲目的に従う民族と誤解して漢字からローマ字にすれば識字率あがるだろうと考えていたようです。
幕末日本にきた西洋人の観察にも多くあるように、女中でさえも命令すると働かないが、任せるとその何倍もやってくれると賞讃されています。
日本軍が強かったのは、個性のない集団主義だからではなく、逆に個々人が心底日本民族を守ると言う使命に燃えているから強かったのです。
集団主義で個性がないと批判する同じ文化人が、「西洋では街並が統一されているが日本では街並がバラバラだ」と批判するので子供心に矛盾を感じて育ちました。
日本は西洋と違って、かなり昔から庶民向けの絵草紙や江戸時代では庶民向け文芸の花が開いています。
芭蕉が奥の細道の旅に出られたのは行く先々でスポンサーが待っていたからできたことですし、それだけ文化の裾野が奥地まで広がっていたことが分ります。
西洋では20世紀の大衆社会が始まるまでは、庶民は文字すら知らず文化に接する必要もない社会でした.
音楽や絵画・演劇等文化的なものは、全て宮廷や教会でしか経験・見られないものでした。
オペラ座と言っても貴族の社交場であって、庶民が行くところではありません。
日本の歌舞伎が庶民の娯楽として始まっているのとは大違いです。
勿論相撲や文楽も俳諧も小唄、端唄、都々逸あるいは浮世絵も皆、庶民大衆向けの娯楽であり芸術でした。
西洋では、庶民にはパンとサーカスという程度の発想でした。
引用文の最後を見れば分るように文盲率が1%と言えば、知恵遅れ等がその程度いますので普通の人はほぼ100%が読み書き出来ていたことになります。
こう言う民族に対して自国の基準を持って、文字が読めないから政府に庶民がたぶらかされていると想像して日本人の知的レベルを上げるためにローマ字を教えてやろうと言うアメリカ国民の知的レベルが分ります.
うろ覚えばかりでは信用性がないので以下のデータを引用します。http://www.nipponnosekaiichi.com/mind_culture/literacy_rate.html

日本は世界一の識字率を誇る。
江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だった。
嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。
また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の修学数の方が多かったという記録もある。
もちろん、寺子屋は義務教育ではない。寺子屋制度は、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した世界的にも稀有なものだった。 当時の日本は、重要なことは役所や国がやるべきだなどという発想はなく、自分にとって重要であるならば、自分たちで自治的に運営するのが当たり前という感覚を持っていた。
これに対し、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか20~25%だった。
19世紀中頃の、イギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度だったという。
フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10~16歳の就学率はわずか1.4%にすぎなかった。<『大江戸ボランティア事情』(石川英輔・田中優子著、講談社)より>
江戸時代の幕末期では、武士階級はほぼ100%が読み書きができたと考えられている。
町人ら庶民層でみた場合も、男子で49~54%、女子では19~21%という推定値が出されている。
江戸に限定すれば70~80%、さらに江戸の中心部に限定すれば約90%が読み書きができたという。<『「奇跡」の日本史』(歴史の謎研究会編、青春出版社)より>
また、1860(万延元)年に日本との間に通商条約を結ぶために来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)は、航海記で次のように述べた。
「子供の就学年齢はおそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけますます迅速に学習する。民衆の学校教育は、中国よりも普及している。
中国では民衆の中でほとんどの場合、男子だけが就学しているのと違い、日本ではたしかに学校といっても中国同様私立校しかないものの、女子も学んでいる。日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」<『エルベ号艦長幕末記』(ラインホルト・ヴェルナー著、新人物往来社)より>

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