日本に居着いた韓国・中国人に犯罪が多いとかヤクザ・高利貸し風俗系その他芳しくない仕事についていることが多い故を持って、韓国人や中国人の品性が卑しいとか民族的にレベルが低いなどと断定するのは7月3日に書いたように間違いです。
実家が貧しくて売春するしかない娘を非難するよりは、そうならざるを得ない苦境を理解してやらねばなりません。
移民受け入れ自体の可否の意見は別として、実際に入って来て住んでいる以上は、その弱者を救済するのが人としてあるべき行為です。
(私は01/04/02「外国人労働力の移入1」以来外国人受け入れ論に一貫して反対しています・・最近ではDec 28, 2012「観光立国と生活レベルの低下4」前後で観光立国論にすら反対しています)
移民受入れに反対することと現に来てしまった移住者の負っているハンデイを補填するべき運動が必要・・これがまさに人道的精神の発露です。
ましてや、いたわるどころか移住者の本国との諍いを理由に心細く生きている・・何も反論出来ない弱者を苛めるようなことは論外と言うべきでしょう。
孟子の言う「怵惕(じゅってき)惻隠の心」を大事にしましょう。
「所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非惡其聲而然也」
赤ちゃん(孺子)が井戸に落ちようとすれば(親に取り入ろうとか郷党朋友から良く言われようなどと考えるヒマもなしに)誰でも手を出して救おうとする心を言ったものです。
孟子の性善説の有名な一節ですが、高校時代に漢文で習った孟子のこの一節が思い出されて(そう言えば韓国人が人命救助しようとして大久保駅で死んだ事件があったと思い出して)グーグルで検索してみたら「惻隠の情」に関して以下のような書き下し分と最近の事例を書いている人がいました。
http://www1.odn.ne.jp/kushida/hk_kwb-j/hk_0401j.html
「人皆な人に忍びざるの心有り。……人皆な人に忍びざるの心有りと謂(い)う所以(ゆえん)は、今、人乍(にわか)に孺子の将(まさ)に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内(い)れんとする所以に非ざるなり。誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり。其の声を悪(にく)みて然るに非ざるなり。(『孟子』公孫丑上)」
「2001年1月、韓国人留学生と日本人カメラマンとが、JR大久保駅線路に転落した日本人を助けようとして尊い命を失ったことはまだ記憶に新しい。そして2003年11月、埼玉県在住の中国人(元留学生)が川でおぼれている小学生を助けようとして飛び込み、やはり尊い命を犠牲にした。彼には妻子もいたという。」
惻隠の情には人種も何もない・・ただ本能的に目の前の苦難を救ってやりたいという孟子の言うとおりの行動が人間には備わっているのです。
日本人も中韓政府の暴言や横暴な態度に一々腹が立つのは尤もですが、日本人まで同じレベルに落ちて言い返しているのでは行けません。
異郷にいて心細く生きている人達を非難するのではなく、思いやる気持ちが必要です。
孟子は続けて言います。
「由是觀之、無惻隱之心、非人也、無羞惡之心、非人也、無辭讓之心、非人也、無是非之心、非人也。」
側隠の心のない人は人に非ず也と言います。
自分の不善を羞じ、人の不善を悪(憎)まない人も人でないし、礼儀のない人も人ではないと言います。
孟子(紀元前372年? – 紀元前289年)が昔言ったとおりに性善説をまるまる実行しているのが、今の日本人であり、これが今世界で賞讃されているのです。
中韓両国政府の悪罵に応じて日本人の多くがやり返しているのでは、同じレベルに落ちてしまい、恥ずかしいことになります。
孟子の意見を見ると始皇帝以降の中国人は専制君主制の結果道義レベルが下がりましたが、2千数百年以上前には立派な人が一人いただけではなく・・・これを受入れる多くの人がいたことが分ります。