日本人には、犬などの動物や植物には石ころとは違って人間同様の心があると思う人が多いのですが、西洋の法では石ころと犬猫を同列理解を基本としていて、20世紀後半になって漸く愛護すべき「対象」となって来たばかりです。
奴隷制度のあったアメリカでは、黒人を人とは認めず、牛や馬など動物と同じ扱いでした。
日本の場合、仮に愛馬と使用人が同じ扱いでも、もともと愛馬や愛犬も肉親同様に可愛がっていたので、それほどの差がもともとありませんが、日本以外では、動物は石ころ同様の扱いになるのですから、人間が奴隷になって動物扱いになると本当にひどいことになります。
「私権の享有は出生に始まる」とすれば、一旦権利の主体になっていた人が途中で奴隷になると私権の主体でなくなってしまうとすれば、その変更に関する法律をどうやって作ってあったのか・技術的に難しいので不思議です。
日本のように自然人と法人の区別だけではなく、奴隷身分になれば人から物体に変更するという特別な法律・・こんな法律をわざわざ作るのも難しいでしょう。
アメリカや西欧諸国では、植民地人や黒人奴隷をどのように区別して法で規定していたのか、あるいは古代から異民族・異教徒や奴隷を一般的な人とは別の物として区別するのは当然とする自然法的解釈があった・・条文すら必要がないほど自明の原理だったのかも知れません。
(アメリカでは、黒人奴隷はアメリカ「市民」ではないという運用だったようです・・南北戦争後の憲法修正第14条で、これらの差別が憲法上禁止されたことになっていますが・・・実際には多数の判例の集積によって徐々に差別が縮小されて来たようです。)
このように考えて行くと、そもそも日本のように「私権の享有は出生に始まる」という大上段に振りかぶった条文・・基本原理を宣言すると奴隷制度に真っ向から矛盾するのでこれを書いた条文がどこにもないのかも知れません。
存在しない条文を検索するのは不可能なので娘に聞くと「私権の享有は出生に始まる」という意味として「奴隷は駄目よ・・」と大学で習った記憶があるということです。
とすれば、西洋には奴隷制と矛盾する「こう言う立派な条文自体がなかったのではないか」という私の推測が当たっている感じです。
西洋が到達したと自慢する人権尊重の精神と言っても、実は古代アテネ市民やローマ市民権同様に近代においてもアメリカ「市民」に限定した人権だったのです。
神の前に平等とか法の下の平等と言っても、人か否かによる基準ではなくすべて「市民」にだけ保障されていたに過ぎません。
(だからアメリカでは、今でも「市民権」を得るかどうかに重要な意味があります)
アメリカ黒人の人権論争についても、長い間「アメリカ市民権」の枠内に入るかどうかのテーマで荒それ修正憲法判例の集積になって来たのですから、人か否かを基準にするのが当然と思い込んでいる日本人には驚きではないでしょうか?
西洋では人か否かの基準ではなく「市民権」のある人間か否かこそが今でも重要だということです。
中国の歴史でも書いてきましたが、古代から中国の地域では商業進出すると、その地で市を開いて昼間は原住民と交易しますが夜になるとそこの守りにつくために、先ず橋頭堡・砦を築いて夜間の守りを固めます。
その砦・城塞住む人と周辺から交易に来る人とは、厳重に区別されていました。
日が暮れると城門が閉まり、鶏鳴によって城門を開ける習わしでしたから、鶏鳴狗盗の故事が生まれるのです。
このように城内=市内の住民=市民と砦外の居留民・原住民とはまるで権利・義務が違いますし、(西洋風に言えば異教徒ないしエイリアン)この歴史があって、今でも中国の農民工・・都市住民資格取得を厳しく制限している差別に連なっているのです。
日本では誰でも知ってのとおり都市と周辺地域との間に城壁もなく自由自在に出入り出来る仕組みですから当然市民とその他の区別もありません。
日本では明治民法の時代から「私権の享有は出生に始まる」と民法冒頭第1条に規定されていて、人として生まれた以上は万人平等が宣言されていますが、これは西洋法の影響ではなく、日本古来からの自然法の確認・宣言だった言うべきでしょう。
この時点で、世界最先端の基本法典を作っていたし、もともとの国民意識の確認条文ですから、法律どおりみんなで実践していたことになります。
こんな当たり前の確認条文が第1条に必要になったのは、当時の西洋文明では差別が当たり前だったから「日本は違うよ!」と明らかにする必要があったのかも知れません。
南北戦争を有利に展開する目的で奴隷解放宣言しただけでは、奴隷制度に慣れ切ったアメリカ人の意識がついて行かないので、実際には直ぐに対等にはならず、100年単位の時間がかかって黒人の権利が徐々に引き上げられて来た国とは違います。
(日本社会は法律制度を考える以前の古代から、万物対等の世界観の民族です・・「やれ打つなハエが手をする足をする」という一茶だったかの句がありますが、ハエ1つ叩くのでさえむやみに殺生するのが憚られる社会・・これが名句として人口に膾炙しているということは、この意識を支持する人が多いということです)
我が家の狭い庭に夏から咲いているサルビアを引き抜いて早く冬〜春用のビオラに植え替えたいのですが、あまりにも元気にサルビアが咲いているので、可哀想で引き抜けないで1日1日引き抜くのを先送りしている状態です。
私一人ではなく、日本人には万物の生命をいとおしく思って生きている人が多いでしょう。