全否定とプロパガンダ2(歴史改ざん1)

我が国での史実改ざんに類する事件としては、歴史上の支配者の中では、もっとも品性に問題のあった秀吉による信長の肖像画書き換え命令が本当にあったらしいことが、現在の技術で(1昨年頃に判明)分ってきましたが、(出来るだけ貧相な容貌への書き換えを命じられた永徳は苦しんだでしょう)やれたとしてもその程度のことです。
今になると残った絵画自体の科学的研究によって完成後に手を加えた後が判明しますが、それ以前の問題として秀吉の邪な命令が連綿と言い伝えられて来たからこそ、現在科学技術を利用した研究対象にもなって証明されることになったのです。
史実を変えようとする秀吉の行為は天に背くものとして国民が許さない文化があったからこそ、言い伝えが残っていて、現在の科学技術で解明しようとすることになって判明したことです。
このように今でも我が国では歴史というのは、その時点で到達した過去の客観的事実を明らかにするべきものと言う立場で一貫しています。
現在の中国の所在地域では、古代から異民族と漢民族?がほぼ交互に王朝を建てて来たことや、流民が前王朝を転覆させて新たに王朝を建てることが殆どであることから、いつも前時代を歪曲したり全否定することがこの地で生きる人の智恵・習慣・文化となって来ました。
最近では共産中国成立後に始まった文化大革命運動による伝統的価値観の全否定がその1事例ですし、改革開放直後には近代化に協力してくれる「日本様様」でしたが資本・技術導入がひととおり終わった後の現在では利用価値が減じたので手のひらを返したように日本全否定になりました。
異民族支配の繰り返しが全否定文化・目先の打算で動く文化を生み、日本のように文化の段階的継承が出来なかった・・段階的発展が出来なかった主な原因です。
中国に残存しない古美術や資料が我が国に多く残っているのも王朝交崩壊の都度、前時代の文化・文物を全否定する文化(国民性)と、何でも良い物は継承して行く我が国の文化の違いです。
毎回前時代を全否定する習慣に加えてその都度支配民族が違っているのですから、中国何千年の歴史などと威張るような内容は全くありません。
そもそも全否定している国に歴史などあるのかと言う疑問が起きますが、いつも全否定するとか、嘘でも何でも言えば勝ちみたいな処世術を継承している点では2000年の歴史があるし、「そう言う民族か!」と理解するために中国大陸での興亡の歴史を学んでおく意味があります。
もしも、異民族交代の歴史を日本列島の歴史に仮に当てはめたらどうなるでしょうか?
奈良時代の終わりに大陸から異民族が侵入して来てその民族が元々の住民を追い出して平安時代を作り、平安末期にロシアから異民族が入ってきて、彼らが原住民を追い出して鎌倉時代を作り、今度は南洋から異民族が侵入してその民族が元の居住者を追い出して室町時代を作り、再び大陸から異民族が侵入してその民族が今度は江戸時代を作り、更に朝鮮から異民族が侵入して明治時代を作ったとした場合を考えればよく分るでしょう。
もしも我が国も上記のように約千数百年間、民族入れ替わりの繰り返しであったとすれば、(骨格だけではなく心のひだに至るきめ細かな)文化の継承は難しく現在日本の歴史のような継続的発展を望めなかったでしょう。
勿論、強固な同胞意識も育っていませんし、黙っていても悪いようにされる心配がないという相互信頼・・長期間の交際を前提にした社会も出来なかったでしょう。
ところで、昨日、東京地裁での弁論が終わった後に、妻とともに三宅坂の国立劇場で歌舞伎を見てきました。
「塩原多助1代記」という通し狂言ですが、主人公はどんな理不尽な言いがかりにもじっと堪えて折檻を受けるという筋書きで、悪役はそれぞれ、時間の経過でそれなりのマイナスを背負って行き、律義な太助に最後に幸せの花が咲くというものでした。
日本社会では、正しいことは黙っていてもいつかは報われるという価値観で生きて来たことが分ります。
この狂言が出来た頃と今では大分国民意識が違うのと、異民族相手になると黙っていても通じることはない・・長期的付き合いが期待し難い点を考慮する必要があるので、国際関係では黙って辛抱とは行かなくなって来ている感じです。

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