民度3(孔孟の教え1)

民族の資質の違いを見るには、それぞれの歴史がどうであったかを知ることが重要です。
我が国と中韓両国の歴史の違いについて見て行きましょう。
日本では社会構造の変化に合わせて古代から次順位の階層が実権を握って順繰りに権力掌握をして来た繰り返しでしたので、徐々に支配に参加する数が広がり民主的運営の基礎が自然に広がってきました。
企業内で若手が経験を積んで順次、主任、係長、課長、部長、重役社長等になって行くのと同じです。
既成権力の下積み・実務官僚としての経験のある階層に順次権力移転して行くので、政治運営のノウハウが引き継がれ・文化の継続性・・順次的に安定成長してきたことが大きな特徴です。
今回民主党政権の実務能力不足は我が国の政権交代の歴史体験から言えば、異質なものだったことによります。
これに対して中国や韓国・朝鮮半島では専制君主制と異民族支配の繰り返しだったために文化の連続性が弱いというよりはむしろ、断絶が基本でした。
清朝では公文書は満州語と漢語の二重形式でしたが、最重要文書は満州語のみで書かれていて、漢人の中のホンの数人程度しか目に触れられない仕組みだったと言われます。
異民族侵入による王朝交代では王朝が代わる都度別の人種に政権が移るので、前時代の政治経験皆無の状態で新政権での政治が始まります。
比喩的に言えば中国では異民族交代の繰り返しのために前政権時代の文化のうち自分の統治に都合の良い(神髄のようなものは無理で外形的に理解し易い)ところだけをつまみ食い的に利用する戦略的選択が行われてきました。
この繰り返しの結果、被支配者も14日のコラムの最後に書いた「個人行動指針としては目先の打算・支配者の行動指針としては戦略的行動」がこの地域に住む人々の共通価値観・処世術となって来ました。
日本では孔孟の教えは道徳的価値のある良い部分だけ抜き取って国民の個々人の生き方の基本にして来ました。(何事も良い部分だけを学ぶ姿勢が顕著です)
これに対して現中国のある地域で興亡した歴代王朝では、漢の劉邦(高祖)が儒教道徳が統治に都合の良い面があったのでこれを抜き出して、世俗的利用し始めたのが始まりです。
最下層から身を起こした劉邦は儒教的道徳・礼儀に縁遠い人物でしたが、権力を獲得した後に礼儀作法や忠孝の秩序維持にうるさい儒教が統治道具として使えるという進言に応じて、先秦諸子百家のうち儒教を便利な統治道具として採用したものでした。
論語の全体をちょっと見れば分りますが、世俗的処世術問答が中心であって、日本のようにその中のエッセンスを抜き出して、しかも日本流に高尚な視点から解釈し直さない限り、悪く使えば単なるハウツー本でしかありません。
我が国は何事も世界中から輸入しては良いところだけ昇華して日本製にして行く国です。
(スペインのカステラと日本のカステラは内容がまるで違いますし、インドのカレーと日本のカレーも違います)
同じ牛肉を食べるのでも、日本に入ると和牛ステーキとなって高級化します。
仏教は我が国独自に発展を遂げたものですし、(空海以降は日本佛教です・・だからこそ定着出来たのです)孔孟の高度な教えも我が国独自の武士道の価値観を付与して存続して来たものです。
(ちなみに武士道の美学は源平の昔から基礎があって、これに儒教的骨組みを付与したものです)
これに対して中国大陸の人民は「孔孟の教え」など2000年間にわたって政府の統治の道具に都合の良いところだけ強制されて来たに過ぎないという受け取り方・・・支配される方からすれば支配される権力に都合の良い道具でしかありませんでした。
(中国人の多くは今回の激しい対日批判を見ても日本人の大好きな「仁」・・「巧言令色鮮なし仁」などは聞いたことがなかったかも?)
共産中国(伝統的被支配者が逆転して天下を取ったことになりますので)成立後の文化大革命では儒教が最重要な排撃対象になっていたことは記憶に新しいところです。
(後に書いて行きますが、文化大革命に限らず王朝が変わる都度前時代をいつも全面否定するのが中国民族の習性になっているのですから、否定するのを「歴史」と言うのは矛盾ですが・・・悲しい民族性になってしまいました。)

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