投資効率4

子供のために自分の生活費を削ってでも数百万円より多くかけて、子供を高学歴化したい親が多いのですが、この階層は一ヶ月当たり数千円くらい子供手当(児童手当等法改正の度に名称が変わりますが・・)の引き揚げがあってもさらにもう一人生みたいとは思わないでしょう。
現在一人1カ月当たり5000円らしいですが、これが2倍になっても(国家予算が倍増になるのは滅多にありません)月5000円しか増えないのですが、数千円の増額に反応してもう一人産もうかと考える親は底辺層に多くなります。
(実際には数千円増額くらいで、もう一人生むようになる人は珍しいでしょう・・・と言うことは、票目当てに無駄なバラマキをしているだけとなります。
間違ったことでもマスコミが『子供を多く生まないと大変なことになる」と宣伝さえすれば、これに反応し易い・・無批判に浸透して行くのは底辺層に多く見られる現象です。
韓流ファンがそれほど多くなくとももの凄く流行しているかのようにマスコミが宣伝を続ければ、多くの国民が時流に乗り遅れないようにと見るようになることを狙って宣伝を続けているのは、こうした効果を狙っているのです。
法律相談で「何故こんなことをしたの?」と意見を聞いていると「テレビで宣伝しているじゃないですか」という言い訳が多く見られ、底辺層では価値判断基準が自分になくてマスコミの傾向に引きずられ易いことが分ります。
私がこのコラムの開始当初からマスコミの支配的傾向に対する批判意見ばかり書いているのは、マスコミの宣伝している意見ばかりが正しいとは言えない・・国民個々人が自分の頭でいろいろ考えて欲しいというコンセプトで、物事には異論があり得るということを知って欲しくて書いています。
ですから、私の意見は「こう言う考え方もあるよ」というだけであって、このコラムの意見通り政治をすれば良いとまで必ずしも主張しているものではありません。
話題を元に戻します。
子供手当の増額、高校無償化その他ホンの僅かな餌につられる底辺層の拡大生産が図られてここ数十年経過して来たことになります。
日本の将来のためには、今後の社会は高度化・・教養・技術修得が必要な時代になっているので、これに対する適応力のある人材比率を引き上げるのが政策目標であるべきです。
素質に関係なく職業訓練さえ数時間多くすればレベルアップ出来るのなら、中国等新興国でも職業訓練に励むと結果が同じになって行くことになります。
後進国と生活水準の差を付け続けるには、優良な素質の人材を増やして行くことこそが、政策目標であるべきです。
もしも優良子孫比率を引き上げる目的の出産奨励であるならば、子供を産めば一定課税するくらいにした方が合理的です。
僅か数千円前後の補助金増額目当てに子供をもう一人産もうかという人が仮にいるとした場合、子孫を増やすのが良いのか、数万円くらい課徴金を払っても子供の欲しい人だけが子孫を残す方が良いのかの問題です。
非正規雇用関連労働者と言えども親の教育負担・愛情をほぼ同様に受けていると思われますが、彼らは一人で親世代を4人分支えるどころか自分一人の将来分の年金さえ支払能力がない人が殆どです。
この階層に補助金を出して拡大再生産をしても社会保障負担が増えるばかりで、年金負担能力がない点は変わらないでしょう。
(これと言った病気でもないのに若者世代で生活保護受給者が広がっています・・これでは次世代が年金を負担するどころではありません)
この点は私がこのコラム開始初期以来主張している外国人労働力移入反対論の根拠と同じで、貧困層の子沢山政策は当面は安い労働力増加で潤いますが、彼らが高齢化したときの社会負担と彼らの次世代に対するケアー・・社会負担増に苦しむことになります。
(現在既に日本語の分らない子供に対する学校現場の負担増、あるいは少年事件の発生等で外国人労働者の反撃が始まっています)
今年の9月21日に千葉の幕張で開催された関弁連のシンポジュームのテーマは「外国人の人権」でしたが、そこでの説明では、学齢期になっても不法滞在等の次世代は、就学のチャンスすらなく、授業についていけないどころの話ではない実態が紹介されていました。
その大会でのテーマは、彼らの人権をどうするかであって、不法滞在であろうがなかろうが一人の人間が困っている限り彼らの人権を考えるのは我々弁護士の役割ですから、それはそれで考えさせられるテーマでした。
しかし別の視点・・こうした社会弱者を大量に生み出す外国人労働力に頼る社会のマイナスを強く考えざるを得ません。
社会のあり方として考えると日本語が全く分らないまま小学校にも通わずに彼らが成長して青少年になって大量に参加して来る社会では、どう言うことになるのか(既に静かに始まっています)空恐ろしい感じがしています。
(現在外国人滞在者は把握されているだけで約200万人に上っています)
今の親世代(60〜70代)は、来たるべき時代は高度社会であるとの予感から、自分の子供を来たるべき時代に適応させるためには、一人当たり高額の養育費・各種訓練費をかけるしかないことを本能的に分っていました。
マスコミが「生めよ増やせよ」と宣伝してもこれを無視して少子化に励み、資金を一人〜2人に集中して(余裕のない層は借金してでも)子供を最低でも高校へ、大学へあるいは専門学校へと進学させてきたのは正しい智恵の発露でした。
歴史を見てもいつ死ぬか分らない戦国時代が終わって、江戸時代に入ると一斉に少子化に転換し、その代わり子供の教育に励んだのと同じで賢い選択です。
私がこのコラムで繰り返し書いている少子化進行促進論が、学者やマスコミによるマインドコントロールにメゲズに実際に子を産む母親によって実際に行われて来たのは正しいことです。
この辺は日本マスコミがこぞって主張している・財政赤字→日本が大変なことになる論が、世界全体・・世界の経済界では全く問題にされていないで、危機時には円が逆に上がっている(世界の圧倒的多数が日本経済の実力を認めていることになります)ことと同じです。
何故か日本のマスコミはいろんな場面で実態に反して中立を装って特定の立場をむやみにマインドコントロールして実現しようとする傾向があるので注意が必要です。

投資効率3

2012/08/22「投資効率2(量から質へ)」から話題が横に行っていましたのでその続きになります。
英才が貧しくて進学出来ないときには、進学率を上げるのは投資効率が高いのですが、豊かな社会になって中学の授業にすらついて行けない子供を無理に高校進学させても(それに適した受け皿としての高校があちこちに生まれています)殆ど無駄な投資になっています。
経済学の初歩で習う効用逓減の法則の適用です。
こうした傾向・・投資効率が低くなり過ぎて来た結果、少子化どころか子供を産まないゼロ選択をする人・・結婚しない人が最近では急激に増えて来ています。
投資効率が下がれば投資する人が減り投資額が減り、最後は投資をゼロにする人も出ますが、これの出産への応用編です。
とは言え、文化関係は投資してもイキナリ効果が出るものではないので、高度な教育の効果は(一見無駄なように見えても)1世代に限らず数世代続けてみなければ分らない面があります。
江戸っ子あるいはパリジャンは3代目で本物と言われるように、文化というものは世代を通した蓄積が必要です。
世代間扶養説は現在社会では血族関係に限定してかろうじて成り立っているに過ぎません。
(今の60〜70歳代以降では殆どの人が自分の老後は子供をあてにしないという意識が普通でしょう)アカの他人間である同業従事者間(しかも労働者自身が同じ業種に一生籍を置くとは限りらないし・・その業種は50年後には殆どなくなっているかもしれないのに)の業種別年金基金で次世代に頼ったり、もっと広く同じ日本国民というだけで世代間扶養となって来ると話がおかし過ぎないかという意見を昨日まで書いてきました。
業種別組合の年金加入者にとっては自分が長期間掛けた年金を返してくれると思って加入している人が殆ど全員であって、3〜40年後の同業種に就職した後輩が年金を払ってくれるなどと思っている人は皆無に近いでしょう。
(タイル屋、左官屋、ペンキ屋ブリキの屋根葺きその他その業種自体が40年もすれば消滅しているのが普通です)
同じ日本国民というだけの世代間扶養を信じて自分で老後資金を全く準備しない人は、余程おめでたい人だけではないでしょうか?
以下、世上流布している世代間扶養説によって、次世代が割を食っていると言う説の批判・・・・2012/07/27/「世代対立を煽る愚3」の続きに戻ります。
投資効率の側面から受益と負担の関係を見ますと、小人数で大きな会議室を借りれば頭割り負担金が上がりますし、大部屋に泊まるのと個室に泊まるのでは一人当たり負担が違うのは当たり前です。
今の年金赤字問題・・次世代は少人数で多くの親世代の面倒を見るのが損だという意見ははホテルで会計するときになって大部屋で泊まったのと同じ料金しか払わないと威張っている人を持ち上げているようなものです。
昔の人は大部屋に泊まれて安かったのに、俺たちは個室ばかりで負担が大きいと文句言っているようなものでしょうか。
今の若者は少人数で大事にされて育ち、育つときも結婚資金、マイホーム資金も少子化の御陰でいつも親がかかりで良い思い・・多くの投資を受けているのですが、大人になるまでに受けた投資に対応する義務・・リターンを果たせない状態になっています。
・・一人で4人分払えないどころか1人前の額でさえ(非正規あるいは無業状態のために)充分な年金掛け金納付能力がないから、年金への税金投入の方向がテーマになっているに過ぎません。
その税をすら負担するのは主として中高年層であって、2〜30代の世代は(年金さえマトモに払えない人が多いので)殆ど税を負担していないでしょう。
少子化すれば年金負担能力が縮小するだろう・・産業を支える労働者も減る・・国力が衰退するというマスコミが紹介する論理が盛んです。
しかし企業が海外展開するのは労働者不足のためではないことは、海外展開の度に繰り返される説明・・「国内工場はそのままで国内雇用を守る」と言う報道がいつもセットになっているのを見れば分るように、企業は高賃金に耐えられないから海外に出るが国内雇用削減しませんという(嘘みたいな)説明が繰り返される(実際に雇用は縮小する一方です)こと自体労働者不足ではないことが明らかです。
労働者不足なら国内雇用を守ることを毎回宣伝する必要がないし、現に失業者が国内に大量にいることの説明がつきません。
中卒の子供4人育てるよりは2人でも大卒まで育てた方が、次世代としては効率が良いという親の意見の方が強いことは、少子化が進行している事実で証明されています。
底辺労働現場が縮小する一方になることはグローバル化開始以降誰の目にも明らかな変化の方向でしたから、中卒の子供4人育てて、子供がみんな最底辺で食うや食わずよりは、1〜2人でも少人数に集中投資して大卒・院卒まで仕上げたいと思うのは健全な常識です。
その方がリターンも大きいと期待するのが普通です。
この方向は大方において誤ってはいないのですが、過剰投資をしてもあるいは適性に反した教育投資をしても投資効率が下がります。
この辺は次回以降書いて行きます。

年金赤字8(年金赤字の基礎4)

世代間扶養説の誤りから年金赤字問題に戻ります。
第2の③長寿化問題はどうでしょうか?
これも9月4日に書いた第1の①と同じく経営責任の問題であって、加入者の責任ではありません。
受給期間がどれくらいになるかの見通しを立てて、納付期間・納付金額を決めてこれによっていくらの支給が出来るかを経営者が考えて消費者に提案することは経営責任の問題であって加入者の責任ではあり得ません。
以上のように見て行くと現在の年金赤字の主要問題は、長期積立金の資金運用が予定通り高利回り運用出来なかったことと、受給者の長寿化=受給期間の長期化と次世代の加入者減及び収入減少による加入者の納付金の低さにあります。
今朝の日経朝刊でも厚生年金基金の解散を容易にする方向で検討と出ていましたが、民間基金の場合で言えば、世代間扶養などは関係(アカの他人同士で、タマタマ同業種というだけで30〜40年前の先輩の生活面倒を見るなどの理念)が遠過ぎて考えられない制度ですから、基金の赤字化は少子化の問題ではなく設計のミス性が明らかです。
業種別に見た場合、社会構造の変化で次々と業種ごとの栄枯盛衰があるのが普通ですから、(石炭産業から石油産業へ、繊維産業から電気機器へなど業界の変遷が激しいのが普通です)1つの業界で何十年後の業界人が先輩の年金を負担出来ることなど論理的にあり得ません。
(50〜100年も羽振りよく続く業界は稀な例と言うべきでしょう・・・金箔その他伝統工芸のように細々とならば、今でも続いていますが・・)
この結果、土木建設、水道事業・管工事など業界別年金基金が業界縮小の結果、あちこちで年金基金存続の危機に瀕しています。
これらはすべて、上記のとおり制度設計に無理があった・・あるいは約束に反して食いつぶして来た経営責任の問題であって次世代加入者が少ないか、各人の納付金が少ないかの問題ではありません。
その責任問題をうやむやにするために「インフレよ再び・・加入者増よ再び!」と願望して騒いでいるのが現在の官僚とその意を受けたマスコミと言うところでしょうか?
国内製造業が雇用を守ると言いながらも、拡大傾向にある好調企業であっても増産分を海外展開するしかないのが時代の趨勢ですし、韓国、中国等に負け始めている企業の場合従業員を縮小する一方ですから、掛け金を納付すべき加入者が減少して行くのは当然のことで少子化とは関係がありません。
何回も書いていますが、(非正規雇用を失業者にカウントしないにもかかわらず)失業率が高止まりしている現状からしても明らかなように少子化=労働者不足で企業が海外展開しているのではありません。
少子化以前に企業の雇用者数が減少しているので、厚生年金の納付者が減少して企業年金等どこもかしこも火の車になっています。
上記の各問題点は経営設計ミスの問題であって、加入者の責任ではありません。
民間生命保険会社を例にして考えてみましょう。
生命保険加入者が想定外に長寿化し続けたために生保各社の大もうけの時代が続きました・・。
これが想定外大災害等で平均より早く死亡したり、想定外金利下落によって運用益が予定に届かなかったり、年金保険契約で言えば、加入者が想定外に長生きして保険会社経営が赤字になったときには国民の責任というのでは一方的です。
古くからの加入者も現在の加入者もどちらの責任でもありません・・想定ミス・安易な年金約束をした経営責任の問題であることは疑問の余地がないでしょう。
政治家が実現出来ない公約を掲げて当選したようなもので、政治家は公約を実現出来なければ責任を取るべきです。
年金は誰が責任をとるべきかですが、当時の政治家や企画者は既に皆鬼籍に入っているし官僚主導でしたから、結果として官僚制度そのものに責任を帰すしかありません。
9月12日に書いたように年金制度は、政府が独占運営する必要がない・・民間・民営化中心に進んでいるのが、官僚の責任の取り方と言うことでしょうか?
政府の年金だとせっかく生活費を切り詰めて積んでいても、やれ障害者が可哀想だ、孤児は可哀想だとなって、次々と人の積んだお金を流用(公的な使い込みです)してその結果赤字だと言われるのでは、安心して預けておけません。
民間保険だと、可哀想な人がいたので保険加入していなかったが死亡保険金を払ってやった・・掛け金を払わないが年とって食えないのでは可哀想なので年金を払ってやっているから赤字になってしまったので、皆さんの保険金支払を減らしますと言って加入者が納得するでしょうか?
民間生保の場合そんなことはあり得ないので、却って安心です。
政府の最低生活保障は税や国債による社会保障費として統一し、これよりも良い生活をしたい人は個人的に預貯金を蓄え、あるいは保険会社の年金に加入すればいいことです。
政府は社会保障に特化して年金制から撤退すべきです。
現在生活保護水準は、国民年金を満額もらうよりも高くなっています。
こうなって来ると、国民年金を掛けるメリットのある人は、それ以上に老後資金を蓄えることが出来る人に限られ、預貯金なしに年金だけを頼りに生きる人にとってはその不足分を生活保護で貰うのでは、1円も掛けて来なかった場合と変わりません。
現役でギリギリの生活(それ以外に老後資金を蓄える能力のない)をしている人にとっては、国民年金掛け金を苦労して払う意味がなくなっています。
最低生活は政府が保障してくれる・・より良い老後生活=プラスαを求めるだけならば、民間保険に委ねれば充分ではないでしょうか?
従来の社会保険庁(解体したとは言えほぼ同数の役人が別の名義で働いている筈です)だけでも、膨大な役人や公的施設を利用していますが、これら全部不要になります。

世代間扶養説の誤り2

年金赤字の主たる原因は制度設計のミスですが、これを隠すために世代間扶養であるから、次世代の人数が減ったので苦しい、次世代の給与が少なくて納付金が少ないなどと今になって言い出しました。
世代間扶養説のまやかしについては9月12日にも書きましたのでその再論・続きです。
世代間扶養の具体的場面ををちょっと考えれば分りますが、成長が永遠に続き人口が永久に増え続けない限り無理な制度ですから、こんなことは最初から誰も本気で考えていなかった筈です。
年金制度開始当初の中高齢者は積み立てが少ないから次世代が負担するしかないという説明が多いのですが、加入したばかりで積み立ての少ない人に対する救済は税や生活保護で見るべきであって、加入者間の助け合いを基本とする年金で見るべきではありません。
年金保険は各人自助努力で積み立てた仲間だけでその結果を分かち合い受給するべきものです。
自分が積み立てても積み立てなくとも老後は貧しいから受給権があるというのでは、誰も年金を掛ける気持ちにならないでしょうから、貧しい人に対しては税や国債を原資とする社会保障でやるべきものです。
障害者は年金を1銭も掛けてなくとも障害年金をもらえる・・サラリーマン主婦も同様で、こうした社会保障的給付制度が多いのですが、こうした社会保障給付を年金に紛れ込ませていて(1銭も払わない人も受給出来る)年金が赤字だと言われてもまじめに掛けている人は納得出来ないでしょう。
こうした点が、本来の年金制度をダメにしているという意見を05/03/05「年金未納問題8(一般免除者)国民年金法 5」前後で書いたことがあります。
世代間扶養説は、障害者年金等と同様に年金保険の本質・掛け金を掛けた人同士の助け合いの本質に反しています。
世代間扶養説によれば、ある国で年金制度が始まった瞬間に、そのときの高齢者が積み立て始めると同時に次世代の積立金で十分な年金を受けられることになります。
年金制度未熟国では世間扶養しかない・・世界中でそんな思想がもしも妥当しているならば、中国でも韓国でもフィリッピンでもまだ年金制度が始まって年数が浅いので蓄積が薄く、高齢者が大変で自殺が多いと一報道されていますが、世代間扶養を主張する報道と矛盾していることになります。
世代間扶養説によれば加入後10日でも数ヶ月でも支給年齢が来れば、全額給付されることになるべきですから、その国で制度が始まったばかりかどうかは問題になりません。
始まったばかりはまだ一定期間(我が国で言えば25年)かけてないから、25年間掛けたことによる受給開始年齢が来ないと言うならば、25年かける期間に足りない中高年者は誰も掛け金を払う気持ちにならないからだと言います。
しかし、彼らも掛け金を払うような気持ちにさせるためには、その差額を(社会保障として)税で見るべきであって、開始当時の若者の掛け金で使ってしまうのでは、次世代加入者の積み立て金の使い込み・詐欺みたいなやり方です。
サラリーマンが集金の使い込みを隠すために次の集金を穴埋めに使う・・自転車操業みたいにやって行く予定が、売上減→集金額の減少で(年金の場合次世代加入者や納付金が減って来たので)やりくりがつかなくなって悪事露見という事件が多いのですが、似たようなことではないでしょうか?
ちなみにどこかの報道で読んだことがありますが、現在の積み立て金残高は、給付額の6年分程度しか残っていないとのことです。
25〜30年間年金を払い続ける予定とすれば、同期間分積立金が残っていないと計算が合いません。
差額20〜25年間分を長い間に少しずつ食いつぶして(集金員で言えば、使いこんで)来たことになります。
現役世代の給付金をそのまま年金給付に当てるならば、給付金額は現役世代次第ですから固定額を予め約束出来ない筈ですし、毎年の入金額をその翌年に全部配れば言い訳ですから、1銭も積み立てて来る必要がなかったことになります。
「毒食らわば皿まで・・」と言う言葉がありますが、世代間扶養説に悪のりして、この積立金があるから、これを財政赤字補填に使えば良いという説まで現れています。
元々年金積み立て・・積んで残しておく意味なのに、各掛け金納付者の積立金を障害者給付その他次々名目を付けてはつまみ食いして来た結果6年分しか残らなくなったものですから、これを25年分充つるまで再補充すべきです。
「6年分しか残ってないなら、世代間扶養ということにして全部使ってしまおう」という無責任な意見が堂々と出て来るのは、世代間扶養などと誤摩化しの意見が流布しているから誤解して出て来た意見です。
世代間扶養のつもりではなかったからこそ、何十年も積み立てて来たのに案に相違して次第に減って来たので(これまで書いているように設計ミスです)危機感を持って騒ぎ出したが、何十年も経過しているうちに僅か6年分しか積立て(蓄え)がなくなってしまったということです。
一生面倒見ますと言って給与天引きして財産管理していた人が無駄遣いした挙げ句に65歳になった人に対して「老後資金が僅か6年分しかありません・次世代に扶養してもらって下さい」と告白している状態が現状です。
世代間扶養とは各人の掛け金に関係なく次世代が負担したお金で見るということですから、掛け金に関係なく支払うと言い出したらそもそも社会全体で見るべきこと、即ち税で賄うのが筋になって来て個人の自由意思による積み立て方式である年金制度と矛盾してきます。

年金赤字7(年金赤字の基礎3)

話が利回り問題から通貨安競争〜中央銀行の役割変化にそれていましたが、少子化が年金赤字の原因かどうかのテーマに戻ります。
2012-9-5「年金赤字5(赤字の基礎2)の続きです。
第2②非正規雇用等の増加で一人頭の納付額が少なくなったこと
についてはどうでしょうか
実はこれも(9月4日に書いた)第1の④と共通の問題ですから、世代論・少子化とは関係がないことになります。
あらゆるものに妥当する原理である需給の原則から言えば、少子化=供給不足が人間の価値を高める原因でこそあれ、低くする作用にはなりません。
しかるにここ20年あまり非正規化=収入減少に見舞われているのは、労働力過剰になっていることが原因です。
失業率がジリジリと上がる一方ですし、ひいては労働条件悪化・賃金が下降して行くことになります。
現在の経済問題・・経済の停滞は少子化にあるのではなく、逆に労働力需要以上に人間を生産している・・労働需要減少に少子化による供給削減が追いついていないことが原因であることが明らかです。
以前から繰り返し書いていますが、55歳定年の時代から60歳定年になり高齢者雇用法によって65歳までの雇用が義務づけられる時代になっています。
定年が1年のびれば1年分丸々の労働者供給が増える(退職しない)のですから、出生数が年間数%減ったくらいでは労働力過剰が解消出来ません。
需要不振で在庫過剰になっているときには、生産を縮小して在庫を早く圧縮すればまた生産活動が復活出来るのが一般経済の鉄則ですが、今の評論家の意見は人間の過剰生産・在庫過剰に陥っているときに、もっと生産=労働者を供給すれば景気が良くなる(失業率が下がる)と言っているようなものです。
この種の意見はこれまで何回も書いてきましたが、ここでは労働力過剰による労働条件の悪化・賃金の低下について書いています。
年金制度は、賃金減少・一人当たり納付金の減少を予定していなかったのでしょうか?
賃金がドンドン上がって行き、これに比例して納付金がドンドン上がって行くことを前提にして年金制度を設計にしていたことの妥当性の問題を吟味しておきましょう。
住宅ローンを組むときや消費者金融で借りるときに給与アップを前提にしていると、ベースアップが停まると大変なことになるのは誰でも分ることです。
永久に成長が続く訳がない・・日本でも韓国や中国でも一定のところで高度成長が頭打ちになるのは誰でも分る明白な事実です。
いつも例に出しますが、成績下位の子供がやる気をして猛烈に勉強を始めると20点で低迷していたところから30点〜40点〜50点までは簡単に上がるとしても、80〜90点になってからでも年率数十%上がるのは不可能です。
何百年と永続しなければならない年金制度の資金について、給与=納付額が下がらないことを前提にした・・危うい希望的観測を前提に制度設計をしていたとすればそのこと自体に大きな問題があったことが明らかです。
(原発の安全性神話や目先の経済性だけ見て安上がりだと言っているのと同じで、無責任なことです)
個人の住宅ローンの場合、一定期間経過でローンが終わりますので、あと10〜20年成長が続けば良いという限定的発想でも妥当することがありますが、年金の場合永続性が必要ですので一定期間だけ何とかなれば良いものではありません。
国が100年も200年も成長し続けることは不可能なことは誰でも分ることですから、いつかは給与水準が頭打ちになり、その内下がって行く場合を予定しておかねばなりません。
と言うことは、次世代の給与水準が低くなったのが想定外だったという主張自体大きな判断ミスだったことになります。
世代間扶養説の誤りについて続けて書いて行きますが、自分の積み立てた限度で年金受給する設定の場合、想定不能な何十年先の給与水準を想定する必要がない点でも合理的です。
(そもそも世代間扶養説によれば、何十年先の労働者の給与→納付額を想定して、今の世代に対する給付額を決定しておくことになりますが、想定不能なことを想定した制度設計をしていたという論説の虚偽性(・・最近言い出したこと)が明らかと言えます)

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