話を2012/02/18「構造変化と格差23(新自由主義1)」の続き、グローバル化・国際平準化対応策→国内格差問題に戻します。
グローバル化(低賃金国の攻勢)に対応するには際限ない産業高度化しかないのですが、(対応に成功するとまた円高になりますが、この点はおくとしての話です)これが成功して仮に汎用品製造部門が縮小して行き、高度部品製造工程だけが企業に残った場合には、企業内に従来通りの給与水準で残れる人材は中間層以上の能力のある・高度技術対応人材に限られます。
国民個人も企業同様に国内に留まる限り中間層・・汎用性のある人向けの職場が減って行く以上は、元中間層は最底辺労働者としての収入を得るか失業者として高度技術者の稼いだ高収入のおこぼれを貰うしかないのは、仕方がないことです。
これを潔しとしないならば、企業のように海外脱出して低賃金国へ移住して行った先でその土地の相場の賃金で働くしかないでしょう。
生活水準低下拒否の先取りをして来たのが、(旧空間で格下げされて惨めな生活をするくらいならば知らない世界の路上生活の方がましと言う)昔からある蒸発者でしょうか?
とは言え、多くの人は生活レベルを下げるためにわざわざ行動するのは、イヤなものです。
サラ金等への支払に困っている人の相談(弁護士に相談にくるほど困っている人)でさえも、給与や収入が下がったのに合わせて安いアパートへ引っ越すのは、なかなか決断出来ない人が多いのが現実です。
高額ローンの高級マンションに居座ったままで、ローン支払用の政府補助金額が少ないと文句言っているイメ−ジになりつつあるのが現在社会でしょうか。
国内に留まって自分より稼ぎのいい人のおこぼれを貰おうとする以上は、稼ぎの多い人と彼からおこぼれを貰う人とは一定以上の格差が生じるのは当然のことであり、非難するべきことではありません。
乞食への施し・・最貧困国への援助でも何でもそうですが、「援助」というものは余程格差があってこそ行うもので、同じ会社員でも数千円や数万円の給与差程度では、援助までしないでしょう。
社会保障・・あるいは権利と名を変えても持てるものから持たざるものへの援助の本質は変わりませんから、他人の働き・援助に頼る以上は援助者と非援助者との間に一定の格差が生じるのは仕方のないことです。
より良く稼ぐ人に一定のインセンチィブを与えるために格差は必要なものですから、結局は実際の格差が合理的な許容範囲かどうかの問題です。
比喩的数字で言えば、5〜10点刻みに能力相応の小刻みな仕事があれば格差もわずかですし、誰も気にしないでしょう。
中間的仕事がなくなって60〜70点以下はみんな10〜20点(非正規雇用)の人と同じ仕事しか出来ない社会では、最低でも上記点数差だけの収入格差が生じます。
20点の仕事しか出来なくなった人はその水準の収入で良いとするならば、80点以上の人は自分の能力通り80点以上の能力に対応する収入で間に合いますので,格差はその数字差だけにで収まります。