助け合いや地域のことを、何もかも税でやらなければならないと思い込んでいる人が多いと思いますが、そんなことは、元々ないのです。
近代国家になって国家権力が強大になったので、政府の入り用は何でも強制的な税に頼るようになっていますが、全く強制力によらず国債を資金力のある人に買ってもらって資金を獲得するのが最もソフトな民間からの資金徴収方法と言えます。
イヤならば国債を買わなきゃ良いのですから、100%自発的拠出に頼ることになります。
何事も強制よりは自発的行為の方がスムースですから、国債による資金徴収方法はソフトな良い制度だと思います。
政府費用や所得再分配資金として「国民からお金を集めるのは税だけだ」と錯覚している人が多いと思いますが、税だけで運営するようになったのは明治維新による近代国家成立以降に限られています。
そもそも中国式の中央集権国家・・政府が直接国民を把握して徴税する仕組み・・・律令制は導入しても、我が国の実情に合わないことから直ぐに破綻してしまったことを01/09/06「律令制の崩壊1(豪族のしたたかさ)」その他関連のコラムで紹介しました。
平安朝以降は荘園や大名小名領地に編成されて行き、次第に中央政府自体が直接徴税出来る仕組みがなくなって行きました。
秀吉が後陽成天皇に寄進したのが僅か3000石であり、家康が関ヶ原後に征夷大将軍に任ぜられたお礼は、秀吉の寄進した旧領安堵でしかなかったのです。
家光の上洛(1634年)の引き出物として後水尾天皇に7000石を寄進して漸く合計1万石の生活費を得たに過ぎません。
(外に5摂家に各1000石していますが・・武士で言えば中級の上の旗本程度です・・高家筆頭の吉良家は4200石程度でした)
徳川時代には公家諸法度で朝廷が政治に口出しさせないように儀式を多くやるように強要していたので、その代わりその経費を見る必要・・・を賄う程度・・今の皇室経費の発想です。
05/22/04「皇室祭祀令 4と雅子妃殿下の苦悩23 (天皇家の独立)」前後で連載しましたが、今の皇室もこの歴史を引きずっているので行事儀式だらけで忙しすぎることを書きました。
徳川政権自体も自分の領地から上がる地代・税によって運営されていて、諸大名には堤防工事や駿河台の石垣積みをやらせたり何かの義務・・たとえば浅野内匠頭に接待供応・・を命じるだけで国税として(大名が自分の領地で取る税は今で言えば地方税に該当するでしょうが・・・)徴収する方法がありませんでした。
大名も支配内で固有の領地を持つ豪族的・・大身家臣の領地内での収入は、その重臣の固有収入であってその何割かを大名家に納める仕組みがなかったことは、徳川家と大名・旗本等の関係と同じです。
元々平安末からの武士団・・鎌倉時代から徳川時代終わりまでの中央・地方の政府組織は、戦闘集団から始まっているので、家臣は命じられれば戦闘だけではなく何でも無償で人的サービスを履行する義務を負うだけで、金品を納付する義務がありませんでした。