州の刺使と国司

中国の場合、これまで何回か紹介しているように古代から清朝が辛亥革命で倒れるまで約3000年間?ずっと専制君主制ですから、國を功臣や親族に与えるのは領地のホンの一部でしかなく、その他殆ど全部が州や郡縣(直轄領地)です。
しかもそれは政権草創当時だけで(成立時に協力してもらったお礼をしなければならないので・・)皇帝権力が安定してくると少しでも直轄領地を増やして行くのがそのやり方です。
日本の場合政権成立直後が政権の最大で、徐々に中央権力が縮小して地方政権が強くなっていくのが原則だったのとは反対ですが、これは日本は細かな地域に分かれた水田耕作社会であったことに帰するのです。
北条家が鎌倉幕府執権職で独裁的権力を握った場合でも、一家だけで握れず多くの北条家に分化しながら持ち回りで執権職をやっていたように一定規模以上の領有を維持しきれない社会です。
逆に明治以降中央集権化が成功し、戦後の地方自治制度が形骸化している(自治体警察などは直ぐに形骸化しました)のは、産業構造の中心が稲作社会ではなくなったからです。
政治家が地方主権を唱えても、経済基礎に反した構想は意味を持ち得ませんので、せいぜいトキの政権攻撃材料に利用して国民の歓心を買うための減税党があるのと同じです。
減税だけでは国家運営を出来ないでしょうから、何を考えているの?単なるバラマキ政党と同じです。
経済活動のグローバル化を前提にすればむしろ地方行政単位は広域化の時代でしょう・・今回の震災被害の結果を見ても部品不足その他広域対処が必要なことがもっと明らかになった筈です。
前漢でも政権成立直後は(韓信のような)功臣を遇するために国を与えたりしましたが、政権の基盤が出来てくると徐々に取りつぶしたり国の権限を縮小して行ったので、景帝の時代にこれに不満を持った呉楚7国(王)の乱・・抵抗が起きるのですが、この抵抗を待って、皇帝軍が叩きつぶして、次の武帝の時にはついに郡国制がなくなってしまう・・全部直轄領・・郡縣制になってしまいます。
我が国の場合5月1日に書いたように朝廷であれ、将軍家であれ直轄領地を殆ど持たないのが原則ですし、あったとしてもそれを家臣に分知して譜代大名に治めさせるのでその家臣が力を持ってしまいます。
(足利時代の大大名・・応仁の乱を引き起こした管領の細川家も元は足利一門です)
漢時代の各地方の郡大守は地方派遣の公務員でしかなかったうえに、彼らに軍事警察権を与えていなかったし、世襲の地位でもなかったので彼らは任期中目一杯私腹を肥やす傾向がありました。
(これが農民暴動に発展して漢王朝が崩壊して行くのですが・・・専制君主制の場合、側近(外戚または宦官)政治になる→賄賂政治になるのが避けられない法則です。)
この汚職横行を改善するために、武帝は郡大守を監察する目的から監察官がいくつかの郡を監察する管轄区域として州制度を始めたことを5月5日紹介しました。
州は地名ではなく観念的な管轄区域の名称が始まりになります。
現在スーパーなどの多数店舗経営の場合何店舗かまとめて仕入れるなどの広域担当者を置いているのと同じ発想だったでしょう。
大和朝廷成立時の各国造は、軍事警察権を持つ半独立国(造あるいは地元豪族が領域内の税収をどう使おうと勝手・・使い込み・汚職の概念がないのですから、彼らの上に「不正」を監察する目的の役人を派遣する余地がありませんでした。
律令制を始めるにあたって漢が州を作ったのに倣って、元々の国の領域を狭めていくつかの評・郡に分割しておいて、これら少し小さくなったコオリをまとめて1つの単位を作りますが、これを州と言わずに元からある国(くに)としました。
しかし、漢の制度に倣って監察するには無理がありますので、「不正取り締まりではなくキチンと政治をしているかの親心?での監督のために似た名称の国司を置いたのが日本的と言うところでしょうか?
国司は昔からある国造を引き継いだ郡司の上にいきなり作った制度ですから、当初は(その後次第に権限を増やして行きますが・・・)せいぜい郡司らの意見調整(司会の司)ときちんと政治をしているか/ひいては朝廷に逆らわないように監督するくらいしか仕事がなかった筈です。
刺使が後に牧になると事実上支配権が強くなって行き、管轄下の各郡の意見調整して支配する方向へ進みますので、前漢の武帝が州に置いた監察官と結果的に職務が似ていたことになります。

郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

大化の改新と中央集権国家化

古代からずっと専制君主制・中央集権国家できた中国では地方官吏を自由に任免する制度しかないのですから、専制君主制が馴染まない風土・・地方小豪族を無視出来ない国柄の我が国の地方制度に同じ漢字を持って来て当てはめるのは、意味が分れば分かるほど無理があったことは確かです。
言うならば中央集権・専制国家の地方制度・・これに基づく熟語をそのまま我が国に持ち込むのは無理ありました。
・・このために我が国独自の造語・・後に書いて行きますが「国司」「郡司」が出来て来たと思いますが、白村江の戦い(663年)で負けた我が国としては国内一丸にならねば唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされてしまう恐怖感があって、しゃにむに天下統一・・国内部族連合から、中央集権国家化・国軍編成が急務でした。
弱肉強食の西洋列強が押し寄せる中で、中央集権国家化を急いだ明治維新のときと状況が同じでした。
大化の改新以前には、国造よりは少し支配服従関係の強い朝廷直轄地の一部支配を認められているアガタ主(旧豪族)に縣を当てたりするなど微温的と言うか国内実情に合わせた間接統治体制だったのでしょうが、そんな悠長なことでは間に合わない緊迫感下にあったのが白村江敗戦以降の国際情勢でした。
国内再編の大型事件としては、天武・持統朝成立に関する壬申の乱でしょう。
壬申の乱は単なる朝廷内の勢力争い・・クーデ・ターに留まらず、大和朝廷の国家枠組みを変革する大事件だったことになります。
この辺に関する私独自の解釈については、02/03/04「吉宗以降の改革とフランス革命」で少し書いています。
この結果、朝廷親衛軍が強化され国内諸豪族の支配地返上の気運が盛り上がります。
この機運に乗じて先ずは、朝廷の支配領域から、アガタヌシによる間接統治をなくして行った・・模範を示した可能性があります。
薩長土肥が先ず自分の兵を明治新政府軍に差し出したのと同じ流れです。
白村江の敗戦以来、朝廷は国内統一・集権化の先がけとして、服従度・忠誠心の高いアガタヌシに率先垂範を求めた可能性があります。
ご存知の通り律令制導入の経済的基礎は、朝廷が版籍を全部把握した上で公民に区分田を支給する班田収受法ですから、中間の豪族を不要にする制度設計・・中国同様の専制君主制に編成し直す試みでした。
兵士も各部族から拠出するのではなく、朝廷が直接把握した名簿(戸口)によって防人としてあるいは租庸調の1つとして公民を個人的に徴兵して軍務につくようになります。
部族の私兵がなくなって行くので、明治維新で薩長土肥が藩兵を提供して国民皆兵制・・徴兵制に切り替えたのと同じやり方です。
これが一時的に大和朝廷成立前からの旧勢力の力を削ぐのに成功し、大和朝廷成立時の旧豪族は宮廷貴族化していきます。
彼らは最早自前の兵も地盤を持たないので、中央で失脚すればおしまいです・・この象徴的事件が菅原道真や伴大納言の失脚でしょう。
しかし、これは中央の制度問題に過ぎず、我が国の社会実態・・・・基礎的産業構造は谷津地など狭い丘陵地の間の水田を基礎とする農業社会である実態が変わったわけでないので、中央による直接管理は無理がありました。
全国一律の暦を配っても神棚に上げておくような実態については、03/04/03「桃の節句 2(旧暦と新暦)」や11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由2(地方分権社会2)」等で紹介しました。
10世紀頃からは旧豪族に代わって新たに生まれてくる地元勢力・荘園に蚕食される一方となり、戦国乱世以降は全部大名領地となって朝廷把握の領地は皆無・・逆に徳川家から支給される関係になってしまいました。
版籍の全面回復は、明治の版籍奉還・廃藩置県(古代史の名称で言えば荘園の廃止)まで約900年間待たねばならなかったのです。
明治の版籍奉還(荘園廃止)が、大和朝廷による中央集権の最終的完成であったことになりますから、大和朝廷の成立は明治2年(1869)と言うことになるのでしょうか?
版籍の「版」とは版図・範囲のことですから、その実務を行うためには地番を正確に付し、地積を測量して行く作業が始まり、(土地登記制度によって完成します)版籍の「籍」とは戸籍のことで戸籍整備作業が続いていたことを、February 15, 2011「戸籍制度整備1」からApril 12, 2011「戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)」までのコラムで紹介して来た通りです。
大化の改新以降中央集権化を計る場合、大きな部族が抵抗すれば戦などで滅ぼして行けますが、小さな部族は稲作に必要な基礎集団なので残して行くしかなかったので国造から郡司さんに格下げされながらも残りましたが、それでも國のオサから郡のオサに権限を縮小して行くのです。
州や縣長官制度は、当時の唐の現役の制度でしたので我が国だけ終身制の縣の長官アガタヌシ制は誤った漢字の使用法となるので落ち着きが悪かったでしょう。
郡長官も中国では元は中央任命の官吏ですが、律令制導入時には既に郡が実在していなかったので(地名としての郡名が残っていても郡庁制度があったかどうかと言う意味です)終身乃至世襲制の郡司(国造の横滑り職)に持って来てもボカし易かったので、郡司に利用出来たのかも知れません。
世襲制(実質は民選)の郡司の下に中央から派遣した県知事を置くことは指揮命令系統上不可能ですから、この時点で縣制度は存在出来なくなりました。
その内に国司の権限を強化して郡司の権限を縮小して行く計画・心づもりではあったでしょう。
国造を横滑りさせたにも拘らず「郡主」ではなく「郡司」にしたのは、政府任命によると言う意味・・世襲出来るのは飽くまで事実上の権利・期待権でしかないことを強調したかったからでしょう。
そうは言っても徳川家家臣の形式をとっても外様大名の子孫は事実上の世襲権を持っていて、これを剥奪出来なかったのと同じです。
実際に同時に出来た国司は、任期制が貫徹されていて最後まで世襲出来なかったのですが、却って地元に定着している郡司に次第に実権を奪われて行きます。

漢字導入時の試行錯誤(縣の消滅)

郡縣、郡国制は後漢以降廃れて行き、我が国に漢字が入って来た5〜6世紀頃には、既に州と縣の制度になっていて郡がなくなっていたように思われます。
それならば何故我が国で國・国司の下に縣(コオリの当て字としての縣)ができず、中国ではなくなっていた郡が我が国で復活採用されたのでしょうか。
元々我が国では何々の國(くに)の下位に「コオリ・コホリ」と呼ばれる下位の行政単位・・地方豪族の治める単位があったのですが、これに縣を当てていた時期もあったのに、縣をこおりと読むのをやめて郡の漢字を当てるようになったいきさつを考えてみたいと思います。
郡縣制や郡国制では、天下・國の次にくるのは郡でしたから、ある程度中国の歴史を勉強して漢字の意味内容が分ってくると、全国をいくつかの國に分類した(州にしなかった)以上は、この段階(大宝律令制定時)で下位の組織として郡が来るべきであって(縣は郡の次に来る組織単位ですから)縣が郡に取って代わられたのは論理的です。
では郡の下に縣(あがた)が何故生き残れなかったかですが、その下となると郷や里ですから単位が小さすぎて元々アガタヌシの領域を当てていた縣を当てることが出来なかったように思います。
広大な中国の制度をそのまま狭い我が国に全部持ち込むのは無理がある筈ですが、加えて州縣制を前提にした制度と郡国制の両立では地方単位が重複してしまいます。
当時世界最先端の唐の制度・・専制君主制の州と縣制にするのは日本の発展段階からして無理があるとして、遣唐使の時代からすれば5〜600年前になくなってしまった国と郡の制度を換骨奪胎して利用することになったものと思われます。
漢字導入以来徐々に中国の真似して取り込んで来た制度のうち、國の規模が違うので何かを省略するしかなかったのす。
州の代わりに國を導入しましたが、(それでも政府の制度採用は別として州を國と読む用法が入っていましたので、九州や関八州などと國を州に当てる用法が副次的に我が国に残っています)既に使用していた縣をどうするかです。
縣が漢字導入の始めの頃にコオリやアガタに当てて使われるようになったのは、漢字が入って来た経緯によるでしょう。
漢字が入って来た当座は、(5〜6世紀)最初から中国の歴史が分りませんから当時中国に存在していた地域的行政単位を國や縣と言うらしい程度の知識から始まった筈です。
(魏晋南北朝・5胡16国の國が乱立していた時期で、既に郡国制や郡縣制は消滅していました)
乱立している我が国のクニに國を当て、次の地方単位である縣に我が国のコオリ・コホリを当てることから始まったのは自然の成り行きです。
魏志倭人伝は、平成23年4月28日に書いたように中国側で我が国の地域名称に魏の国制を当てはめて翻訳して紹介しているのです。
何世紀か過ぎて中国の歴史や制度内容が詳しく分ってくると地方単位でも皇帝や国主の信任する人がその行政を預かるのを縣と言うのが分って来ます。
我が国のアガタヌシの治める地域をこれに当てるようになってある程度の独立性のある地域を國と使い分けるようになってから、縣をアガタと読むようになった可能性があります。
縣を当初はコオリと読む時期があって、その次にアガタに変化した・・時間差があったことになります。
大和朝廷成立前には諸勢力が乱立していて、これら乱立する地域を「くに」と言っていて、これに國の漢字を当てていたのです。
その「くに」が周辺地域を併呑して大きくなって来て、いくつかの部族を統合した大きな「くに」が出来た頃には配下武将支配地域をアガタと言うようになっていたものと思われます。
当時の中国では地名としては、後漢以来の何々州が存在していましたが、勢力範囲としてはこれに一部またがる國名を使っていた複雑な関係でした。
我が国の「くに」はその前に地名らしいものがなかったので、これが原始的地名を兼ねていたので、現在まで古い地名として残ってるのですが、中国の場合、州名が地名として残った上に後から魏晋南北朝の乱世となって勢力範囲・國が州境を越えて来たので、州名と国名がズレて重なった関係になっていました。
我が国の戦国末期の大名が隣国と更に隣の國の一部を併呑しているような関係です。
大和朝廷成立時に半独立国で朝廷の権威に服属した地域を従来通りの國と言い、大和朝廷成立時の支配下の武将をアガタ・アガタヌシと言って使い分けていたのではないかと言うのが、4月30日に書いた推測でした。
郡縣制は秦時代の制度ですし郡国制は私の知っている限り後漢の終わり頃にはなくなっていたので、漢字導入直後ころには郡と言う漢字は自然の交流・・日常会話的には過去の漢字として入って来てたとしても一般的でなかったでしょう。
漢字の入って来た当時の中国の制度として地名などに「どこそこの國」、「どこそこの縣」が頻繁に使われていたので、それぞれ支配下領域をクニに当てて、(やまたい国と言うなど)くにの支配下の地域・・こおりに「縣」の漢字が利用されたと思われます。
国造(くにのみやつこ)に國と言う漢字を当てるようになったころには、大和朝廷成立後のことでしょうから中国で言う國の制度も知られていた筈です。
國のヌシは皇帝の子供が封じられていることが分って、ミヤツ子=宮の子・大王の子を擬制する我が國の風習とも一致したと思われます。
親子さえ擬制すれば世襲制であり半独立性があること、域外の服属国・・朝貢国類似の関係などその他すべてが一致していたのです。
これに対して縣の長官は世襲制ではない・・単なる代官的立場の人が治める地域でしかないらしいと分かるのですが、それならば國をアガタと読めば良いようなものですが、日本古来の「くに」の名称をなくすわけにはいかず、他方で既にアガタは國の一部として定着していたので、今更國をアガタと読み替える訳にはいなかったのでしょう。
また地方の単位ではあっても、國の次の単位は縣ではなく郡であったことも分って来たので、郡に取って代わられたと思われます。
ですから縣をこおりと読んでいた次期があるとしても、郡と同時期に縣もこおりと読んでいたのではなく時間差があることになります。
こんないきさつから縣の漢字の利用がなくなってしまったのではないかと言うのが私の現在の到達点です。
辞書等のない時代にいろんな人・ルート経由で少しずつ入って来た漢字の当てはめに、思考錯誤する期間が長かったのは仕方がないことです。
物品の名前と違い國の制度は微妙に違うので(相手の制度も変わるしこちらも変わるなど)制度が安定するまではくるくる変わっても仕方がないでしょう。
日本では将軍の名称が同じでも、鎌倉・室町初期・室町末期・江戸時代の将軍は、時代・時期によって権力構造はまるで違うことが明らかです。

国造から郡司へ(国郡里制)

律令制以前からあった国造は、みゃつこ=宮の子の意味ですから、中国で王族を国王に封じたのを真似したのかとも言えますが、元々我が国では、降伏した相手の神を祭る習慣があり、我が国古来からの智恵の現れとも言えます。
前回書いたように被征服民族や服属民族を皆殺しに出来ないので、これらを融和することが古代から必要でした。
自分の会社を大きくして行くばかりではなく、M&Aで大きくして行く場合の話です。
今のように地下資源目的の戦争ではないので、征服するのはその土地にいる労働力を入手することが目的だったからです。
造(みやつこ)は大和朝廷の大王の子の扱いですが、事実は地方服属者でしょうし、後世発達する猶子制度の先がけだったかも知れません。
國造と縣・あがた主の並立は、当時の中国の制度をそのまま真似せずに我が国の実情に合わせて漢の郡国制と同様の混合政体を採用したものと思いますが、朝廷は先ずは被征服王朝の代表者を大和朝廷・・大王の子供扱いに優遇して融和を図ったものと思われます。
江戸時代までに確立していた国名・範囲は何時からのものかを知りませんが、『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が置かれていたようですから、(これは論文ではなく思いつきコラムですので原典に当たっていません・・)江戸時代まであった国の大きさ・範囲とは違うようです。
きっちり数えた訳ではないので数字は正確ではありませんが、一般に日本60余州と言われていたことから見ると江戸時代の2倍の数・・面積が半分だったことになります。
(当時と今では朝廷の勢力範囲が違うので面積的には3分のⅠくらいだったでしょうか?)
律令制によって国郡里制が始まる・・前提として従来の国造支配地を「評」(コオリ・コホリ)とする大化5年の再編行為(国評里制)がありました。
(大宝律令に「郡」が記載されているので、その前から郡制だったような解釈が主流でしたが、あちこちから出土した木簡にこの記載があったので分ったのです)
地域単位を我が国の言葉では「コオリ・コホリ」と表現していて漢字輸入に伴いいろいろな漢字をこれに当てていた時期があったのです。
「評」だって中国からの漢字輸入によるのですが、大宝令まで何故「郡」を使わずに「評」だったのかも不思議です。
それまでは高句麗経由だったのが、思想関係も直輸入になって変更されたのかも知れません。(この辺は私の空想です)
英語の勉強で「ネイテイブの発音は違う」と教えられるようなものです。
国造の支配地を評(コオリ)としていたのですが、この「評」を郡と言う漢字に大宝律令で置き換えたので、これらいくつかの集合体の上に國を作り直せば、国司が郡司の上に位置する監督官の地位を設けるのに無理がなくなりました。
ちなみに國評里制から律令制で国郡里制に変わったときに、国造が郡司さんに横滑り出来たのは上記のとおり元の国造の行政区域を「評」と言い換えて「評」の主に変更していたからです。
このときに領域も少し変えたようですが・・どこをどう代えたのかの詳細は不明ですが、今で言えば中選挙区を小選挙区に変えたようなもので、従来の国造の支配領域はぐっと狭くなりました。
(元国造ではない郡司も新たに出来たことになります)
中国では郡衙も縣衙も中央政府任命による官吏の運営する役所ですが、日本の郡司は国造の改名・横滑りしたものが中心ですから世襲的・半独立終身官が基本です。
律令制で出来た国司こそ中央任命制ですから、中国の郡長官あるいはこの頃には一般化されていた州長官(後漢以降一般的となっていた刺使)と命名すべきでしょうが、郡の上に、州ではない国名を持って来た・・定着していたので州に変えられなかったのでしょう・・関係からか、刺使(長官)でもないし国主でもない中途半端な「国司」(我が国の造語・和製漢語かな?)と言う名称になったように思えます。
ところで、我が国の地方制度は唐の律令制だけではなく中国古代からの郡縣・郡国制を参考にしていたし、地方単位をコオリ・コホリと言いこれを縣にも「評」にも当てていた時期があったのですが、縣だけ古代の制度では何故消滅して行ったか(1200年後の明治で郡縣をひっくり返して復活したか)です。
国造のあった時代には、昨日5月1日に書いたように、服従度が高い意味で並列的にアガタ主の治める地域もありましたが、律令制施行・・中央集権化の強化目的により全国を大和朝廷が直接支配する國に再編し直しました。
半独立地域と直接支配区域に区別する必要がなくなり、全部をアガタ主の治める地域にするか全部からアガタ主を不要にするかしかありません。
古代からの豪族の力を弱めて中国並みの直接統治制度を目指した朝廷では、豪族支配を前提とする県主も邪魔になったのでしょう。
全国統一の国司派遣制度にも反するので、この機会に朝廷成立の功臣・アガタ主の特権を奪ってしまったものと思われます。
ちなみに天武天皇の制定した「8色の姓」ではそれまで存在していたアガタヌシの姓(かばね)「あたい・直」がなくなっています。
ヌシは、大国主のみことの神話でも知られているように神話時代からの由緒ある姓の1つでした。
そしてアガタ主に当てていた漢字「縣」も利用されなくなって、明治維新まで来たと言うのが私の推測です。

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