大政奉還の上表に対して将軍辞職と領地返納命令(辞官納地)(12月9日のクーデター)で応じたのは言いがかりも良いところで、徳川恩顧の大名(会津・桑名くらいでしょうか)新選組が憤激したのは当然です。
道理に反しているので,三職会議のメンバーでは、岩倉と薩摩系(大久保と久光)だけの主張に過ぎず先ず山内容堂が異を唱えこれに後藤象二郎や越前や尾州であったかが同調して決着がつかず休憩を挟んで、軍事力を背景とする説得で休憩後に漸く辞官納地が決まったもののその内容は・まだ具体的ではありませんでした。
その後日を追ってクーデターに対する諸候の非難が高まって、結果的に慶喜側が巻き返して行き、クーデター効果が失いつつありました。
(辞官納地論もうやむやになりかけていました)そこで薩摩が挑発するべき非常手段として江戸での撹乱工作が行われます。
これに対して庄内藩が薩摩屋敷の焼き討ち実行して応えたのが伝わり洛中での軍事衝突を避けて大阪城に引き上げていた会津桑名や徳川家主戦論派が勢いを得て押し出して行った結果、(薩摩の挑発に負けたのです)鳥羽伏見の役が起きてしまいます。
どうせ戦うことになるならば、島津久光による3000の兵を率いての上洛段階で,これを阻止すべく軍兵を率いての上洛を朝廷名で禁じておけば良かったのです。
倒幕目的でのクーデター計画もある程度知られていたのですから,当時の朝廷内の公卿会議構成員はみんな左幕派でしたのでやる気になれば可能でした。
あるいは上洛して来ても、会津・桑名兵が御所の警備を死守していれば,ここでの大規模な戦闘をすれば,島津の方を長州同様(禁門の変)の朝敵にしてしまえば良かった筈です。
これを傍観していて,衝突を避けて大阪へ引き上げてから,押し出して行くのは戦略的に失敗だったことになります。(後講釈は誰でも出来ますが・・・)
平治の乱で義朝が清盛の上洛を阻止出来なかった故事と似ています。
幕府側は総力結集どころか、戦意盛んなのは会津と桑名の兵が主力でしたが,それでも薩長兵力に対して数では勝っていたらしいのですが,指揮系統のない状態であるばかりか近代装備化度・・兵力的に劣っていました。
戦端が開かれると待ってましたとばかりに慶喜朝敵論が文句なしに決まってしまいます。
以下朝敵として追討令が出た瞬間です。
慶喜追討令
「去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。兵端既に相開き候上は、速やかに賊徒御平治、万民塗炭の苦を救せられ度き叡慮に候間、今般仁和寺宮征討将軍に任ぜられ候に付ては、是迄偸安怠惰に打過ぎ或ひは両端を抱き候者は勿論、仮令賊徒に従ひ譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有り候輩は、寛大の思召にて御採用在らせらるべく候。戦功により、此の行末徳川家の儀に付歎願の儀も候得ば、其の筋により御許容これ有るべく候。然るに此の御時節に至り、大義を弁えず賊徒と謀を通し、或ひは潜居致させ候者は、朝敵同様厳刑に処せらるべく候間、心得違これ無き様致すべく候事」
如何にも感情的な以下の文言は,むしろ薩長側が待ち受けていたことを言い表しています。
「現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。」
薩長連合軍対幕府連合軍の戦力比が仮に5対15であっても、この挑発に乗ると朝敵になることから戦意その他で大きなマイナスになってしまいます。
せっかく政治的に勝ちかけていた時に下部で挑発に乗ってしまった・・、下部の暴走を止められなかったのが徳川側の失敗でした。
慶喜は京での会議で理路整然の意見を述べるには有能だったと思われるのですが、 三職会議に徳川一族の越前や尾張徳川家が入っていることや中立の芸州藩が入っていることなどを見ると、論理が先立って政治的多数派工作には不向きだった可能性があります。
上記のように相手に先手先手をとられて次第に後退して行く慶喜のやり方には徳川内部の武断派には理解不能・・譲り過ぎの印象があり、慶喜の信望が今一不足していたことが災いしたのでしょう。