中央の下級中級貴族が地方赴任を機会に地元の豪族と姻戚関係に入り、根を下ろして行く受領階級もいましたし、中央では出世出来そうもない皇族は臣下に下って地方に実質的に流されて行きます。
これが後の武家の棟梁となる平家や源氏の先祖になって行くのです。
天下を握った藤原氏としては政敵になりそうな人材を積極的に地方へ飛ばしていたし、皇族の方も中央にいて藤原氏と張り合うと危ないので、自ら進んで臣籍降下して地方へ下って行く皇族が増えます。
(藤原氏と張り合って失脚した長屋の王の事例を危惧しているのです)
足利将軍家で次男以下が跡目争いをしない意思表示として僧籍に入っていたのと同じです。
最初に飛ばされていたのは、桓武平氏でこれが藤原氏の地盤の東国に・・中臣氏の出自は鹿島神宮の神官です・・飛ばして監視するつもりだったでしょうが、飛ばしたつもりが彼らが逆に地方で力を蓄えて今度は武士の棟梁として、藤原氏の足下を崩して行くことになろうとは予想もつかなかったでしょう。
(伊豆に流された頼朝が平家の地盤の東国で力を蓄えて逆襲するのと同じパターンです)
地方に派遣された官僚のトップ・・・律令制の地方官制から言えば、国司は中国の郡の大守や県知事と同じ役割ですが、我が国の場合地方赴任しても在地領主層(・・彼らの多くは郡司に任命されていたので実質と合っていました)の御機嫌取りに終始して大過なく任期満了をまつばかりです。
中国の州知事や県令は専制君主の代理人ですから、その焼き写しの権限がありますが、大和朝廷自体にはそんな権限が元々ないので国司(國からきた地元諸豪族合議の司会者・・5月6日に書いたように監理者?)と言う特異な用語にしたことになります。
司(つかさ)にはいろいろな意味があってややこしいのですが、古代から中国ではいろんな分野の長官を(・・軍隊の司令官がその典型ですが、指揮命令権を中核とする)意味で使っています。
これを國の司としたのは・國である以上はある程度の自由裁量権・・独立性が高いことを前提としているのですが、中央集権化のために本来の國のような裁量権までは与えない・単なる県令よりは上の裁量権のある役職として国主でもない「国司」と言う中間的名称が生まれたように思われます。
彼らは、赴任しても合議をまとめる・・ご機嫌取りしか仕事がないので赴任するのが嫌になり次第に遥任の官になって行きます。
遥任の官が普通になってくると、後世では官名は格式を現すに過ぎない制度になって行きました。
中には国司が在地領主との結びつきを深めて地盤を地方に築いて行く平将門(の台頭に連なるⅠ〜2世代前の人たち)のような事例が増えて行き、2極化して行きます。
在地領主との結びつきを深めた最初の系統が桓武(806年死亡)平氏系であり、その後に勢力を広げたのが清和(880年頃死亡)系源氏一門と言えます。
桓武平氏と清和源氏とでは、始りが約80年差となり、その差によって平氏が貴族の仲間入りにこだわったのに対して、清和源氏系の頼朝が、新しい武士の時代を切り開く時代適合が可能であったことになります。
もっと言えば清和源氏でも、本来は末流の河内源氏が武士として頭角を現して行くのは、遅くなればなるほど土着性が強くなっていたことによるでしょう。
鎌倉・室町時代まではまだ血統がものを言いましたが、戦国乱世になると実力次第ですので、(途中で上杉謙信のように名跡にこだわる武将もいましたが例外です)最後に天下を取ったのは天皇家の血統を引く源氏でも平家でもない、地生えの木下(豊臣)〜松平(徳川)でした。