荘園経営・不輸不入の権などを獲得して行く先がけ・主役になったのは朝廷経営の主役・実力者である藤原氏や院政期の院でした。
朝廷の権力強化をはからねばならない筈の摂関家や院政期の院(上皇)が荘園を禁圧する方向に動かずに積極的に自分の荘園を広げて行ったのは不思議な感じです。
荘園の不輸不入の権と国司の徴税権とは相容れない関係ですから、国司が地方勢力と徴税の実効性を巡って現地で熾烈に争っていたのですが、地元有力者がこれを有利に運ぶには中央の最高権力者に名義貸しするのが最も手っ取り早かったでしょう。
こうして初期には、中央の豪族や有力寺社がその受け皿となって全国に荘園を持つようになり、その最大勢力が藤原一門でしたが、藤原氏の外戚の桎梏から逃れて摂関家に対抗するようになった院政期の・・上皇側でも、対抗するための経済力の裏付けとしてせっせと荘園経営に乗り出していたのです。
ちなみに院の荘園として知られる八条院領についてみると、この荘園は美福門院から始まって順徳帝を経て大覚寺系統・・後醍醐天皇に引き継がれてその経済基盤になっていたことが分ります。
ついでに、平家打倒挙兵の令旨で知られる以仁王はこの院の猶子になっているし、令旨に応じて挙兵した源三位頼政はこの院付きの武士でもあったのです。
後醍醐天皇側について鎌倉幕府に反旗を翻した足利氏は、この八条院の荘園・・足利の莊の在地領主だった関係になります。
鎌倉幕府成立=貴族の荘園がなくなったかのように誤解しがちですが、鎌倉幕府崩壊の時点でもこんな状態ですから、中央の政権の中枢が鎌倉に移ったと言うだけで、荘園経営権は徐々に足下から武家に移って行きつつあったに過ぎないことが分ります。
話を戻しますと朝廷中枢による荘園獲得によって、朝廷管理地・・班田収受法は殆ど空洞化してしまっていたのです。
他方で荘園領主の管理や警備を任されていた武士層が依頼者・荘園領主に収益を納めない・・この関係の紛争が多発していたのですが、この段階では地元有力者・武士層が貴族に納めないのは道義的に外見上問題があったように見えます。
しかし実質を見れば、地元有力者としては名義を有力貴族に借りただけですから、その名義借料だけ納めれば良いと言うことで、その比率がいつももめ事の種になります。
このせめぎ合いが熾烈だったのが鎌倉時代だったと言えるでしょうが、ここで両者の間に入って活躍するのが元の郡司層でした。
古代郡司は元は国造でしたが、これが10世紀頃には没落して行き、この後で在庁官人として勃興した後期郡司は本来国司の役人でしたが、鎌倉の御家人を兼ねて両者の間に入って解決に奔走していたようです。
このせめぎ合いは徐々に武士側の方に形勢が傾いて行きますが、この一発逆転を狙ったのが建武の中興でした。
制度的には鎌倉幕府が獲得した守護地頭制と国司の権限の張り合いでした。
政権が朝廷に戻ると武士側に不利な裁定が続き(これが目的ですから当然の結果です)、朝廷に味方した武士層の不満がたまって行きます。
武士の力・多くを味方に付けた方が勝つ時代に入った以上は、幕府との戦いに勝ったからと言って貴族側と武士側の荘園経営権争いに公家の見方・・有利な裁定をしていたのでは、せっかく天皇側についた武士が離反するのは当然です。
承久の乱で「天皇親政に戻ると武士はひどい目に遭う」と言う北条政子の演説が有名ですが、正しい歴史観だったのです。
武士層の不満をうまく吸収した足利氏が天下の権を握って行くので、それ以降は貴族層の領地経営は殆ど無理になって行き、戦国時代に突入して行きます。
戦国大名の時代になって行くと貴族層は道義に訴えてもどうにもなりませんから、戦国大名領内の朝廷の公田や貴族の荘園などは収益の徴収不能・・事実上消滅していた・・紛争など起きようもなくなってしまった筈です。
こんなことの繰り返しで朝廷管理の公田や貴族層の荘園領主制は完全になくなってしまい、朝廷・・天皇家自体が徳川家から収入保障を受けないと生きて行けない逆転した関係になってしまいました。
武士は形式から見れば朝廷や貴族の荘園警備から本来始まった管理者だったのに、その管理者から今月はいくら送ってやると言われて、その仕送りで細々と生きているようなもの・・乗っ取ってしまったようなものです。
独り者の被介護者が、介護に働きに来ている人から今日はお仕置きとして、これしかして上げないからといじめを受けるようになったのと似ています。
(どちらが雇い主か分らなくなる状態です)
とは言え、実質から見れば、地元豪族が中央豪族に名義借りをしていたに過ぎないとすれば、中央貴族の没落で名義を借りる必要がなくなったとすれば、何時までも名義借り料を払う気持ちがなくなって行くのは当然です。
鎌倉幕府が出来ても、この頃はまだ武士と貴族系の荘園、朝廷の公田からの上がりの取り合いが熾烈な時代でした。
制度的には発展して行く守護地頭と国司の権限争いが続くのです。
大和朝廷は成立当初から、中央集権化をはかるために各地に残した地方豪族を何とか消滅させようとして来たのですが、叩いても叩いても下から這い上がってくる在地実力者を根絶出来ず、結果的に中央の権力が空洞化してしまった歴史だったことになります。
この生い立ち故に、明治政府(大和朝廷)は郡司に代表される在地勢力に蚕食される一方だった公地公民の版籍奉還を受けた際に、2000年来の宿敵殲滅の機会とばかりに郡制度を盲腸みたいな存在にして行き、平成の大合併推進で大方姿を消すことになっていったと深読み出来ます。
千葉県内では市原郡や君津郡が昭和の大合併で1つの市になってしまったと Apr 26, 2011で書きましたが、今では八千代郡内、千葉郡内、葛飾郡内にも町村が1つも残っていませんので、もはや郡制度は首の皮1枚足らずと言うところです。