中央集権化と王朝政治3

日本の官僚は古代から私心がなく公平な官僚が多かったので、May 9, 2011「律令制完成と王朝政治1」で書いたように 国司は中央の権威を利用して地元利害対立の仲裁裁定をしていたのですが、たまにはずれの国司も出てきます。
国司の裁量があまりに不当すぎるとして国司を襲撃してしまったのが平将門の乱でした。
武士団はあるときは国府の権威を利用し、あるときは抵抗するなどきわどい存在でしたが、承平天慶の乱は、ついに正面から国府権威を否定した大事件でした。
新興勢力が国府の権威利用から(国府権威を飛び越した)中央の権威利用にまで進み・・(各地の荘園が有力貴族への名目的寄進が進み、有力貴族の庇護を受けるようになって行ったのと軌を一にしています)この過程で中央から逆に桓武平氏など地方への進出が進みました・・国府権威を問題にしなくなりつつりました。
国府が武士を利用しているうちに武士に翻弄されるようになっていたことが表面に出たのが承平天慶の乱ですし、中央でも同じ問題・貴族が武士を利用しているつもりがついに武士の争いに振り回されるようになって行ったのが保元(1156年)平治(1159年)の乱でした。
承平天慶の乱は、935年(承平5)伯父の国香を殺し、(ここまでは私戦)次いで939年(天慶2)常陸国司を攻撃した事件ですが、律令施行後約230年以上経過後のことです。
律令制の成果かどうかは知りませんが、・・中国のような搾取による地方窮乏化の結果による棄民化による捨て鉢な暴動ではなく、古代社会の地方豪族が力を失い他の勢力が台頭して来た・・逆に地方の別勢力が実力を蓄えて行った別の発展段階による反乱発生でした。
中国とは違って、圧制に苦しむだけではなく、地方は地方でしこしこと実力を蓄えて行ったので、却って王朝政治を足もとから崩して行く原動力・・社会の絶えざる発展が続いたのですから目出たいことでした。
中央の大豪族は没落しっ放しですが、(藤原氏だけ残っていましたが、これも保元平治の乱以降衰退します)国司・国衙の仕事が増えてくると人材不足から、地元豪族の子弟は「在庁官人」として採用されるようになって旧郡司あるいはその階層の人材が国衙内あるいは地方で実力を蓄えて行きます。
平将門を討った押領使である藤原の秀郷などもその一人です。
国司配下・・郡役所を持たないで国衙で働く郡司や令外の官である押領使となり、これが後に成長して行く武士の母体になって行くのです。
(郡司の母体には前後2種類があります)
我が国の場合May 1, 2011国造と縣主2」で書いたとおり、重層的支配の社会ですので、中央派遣の国司と言う役職を作って天下り役人がいきなり国司として赴任して来ても、その下に存在する部族集団を無視出来ません。
吸収合併した子会社の社長を一定期間はそのままにするのが普通(これが国造)ですが、更に時間が経過して本社から新社長(国司)を送り込んでも、元からいる幹部従業員の意向を尊重しながら安全運転しなければならないのと同じです。
荘園などの発達に危機感を持った朝廷は、10世紀に入って国司(グループの筆頭官の受領)の権限を強化して行った事により、郡司(もとは國造)の収税機能が弱体化して没落して行くのですが、この権限強化に合わせて国府役所の方で実務官僚が必要となりました。
そこで地元中堅層を在地官人・・現場採用したことで、彼ら現地実務官僚が実務に精通して行き、国司が自分で出張して行く必要性が減少して行き「目代」と言う代理人を出張させて間に合わせるようになっていたこともあって、次第に遥任の官に変化したとも言われています。

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