遺言制度改正2(期間限定)

遺言の自由度が高まるとこれを悪用する人が出てきますので、従来(現行法)のように形式だけの規制では無理が出てきます。
そもそも今の遺言形式の法定主義は、現在のように学歴の上昇した時代にはあまり意味のない規定の羅列です。
形式さえ整っていたら有効と言うのでは、(遺言者に意思能力があることが前提ですが、以下に書いて行くようにこれでは十分ではないので)これを悪用する人が増えるリスクがあります。
死亡前一定期間以内の遺言や老人ホーム及び介護関係者など寄付したり遺贈したりするのを禁止・無効にしたりすることも必要でしょう。
そうでないとこれからは殆どの人にとっては人生の最後が老人ホームあるいは被介護者ですから、密室で好きなような遺言書を作成させられてしまう可能性があります。
法定相続人がいる場合、老人ホームが全部貰うような遺言があると驚いて社会問題に発展する・・悪い噂になるので老人ホーム側も現在は自制していますが、法定相続人制度がない場合、あるいは法定相続制度が残っていても身寄りのない高齢者が増えてくると痴呆状態で書いた遺言は無効ではないかと争う人や、あそこのホームはひどいとマスコミで騒ぐ人がいないので、どんな遺言でも誰も知らないうちに処理されてしまいます。
前回まで書いたように遺言書は形式さえ整っていれば先ずは有効なものとして取扱う仕組みです。
後で書くような遺言書作成を強要しなくとも、職員が適当に偽造文書を作ってそれを法務局に出せば、先ずは登記をして貰えます。
名義変更登記して不動産を売りに出して換金しても子供でもいない限り誰も争わないので、そのままになってしまいます。
子供がいれば、故郷の親の家が売りに出されていれば誰かの通報で気がつくこともありますが、相続人がいない場合仮に近所の人がおかしいと思ってもどこへ通報して良いか不明ですし、事情を知っている友人がいて、弁護士相談にきても、弁護士はその人から受任して証拠集めなどすることが出来ません。
近所の人とか友人と言うだけではその遺言に何の利害関係もなく、何の法的手続きも出来ないからです。
当事者資格(適格)として、11/03/02「裁判を申し立てる資格3」以下で紹介したことがありますが、裁判するにはその結果に法律上の利害がないと裁判する・・訴える資格がないのです。
ですから、近所の人や友人は銀行などに行って亡くなった人の預金の流れの調べる権利もありませんし、払い戻しに使った書類や遺言書を見せてくれとも言えません。
犯罪抑止には道徳心だけではなく直ぐにバレルリスクがあることが一番の抑止力ですが、身寄りのない人の場合老人ホームや介護者は何をしても後でバレることがないとなれば偽造でも何でも何の抑止力もない・・フリーパスと言うことです。
法務局は届け出があれば偽造かどうか調べないのか?と疑問を持つ人がいるでしょうが、調べろと言っても何の資料もない(本人の筆跡など事前登録していませんし)ので調べようがないのが現実です。
法務局ではこのため生前の移転登記には印鑑証明書添付を要求しているのですが、遺言の場合、死亡者には印鑑証明を添付する余地がないので、三文判でも良いことになっています。
自筆証書遺言は自筆であることだけが要件で印は三文判か否かを問わないし、これを仮に改正して実印を要求したとしてもあまり意味がありません。
身動き出来なくなって老人ホームに長期滞在している人や自宅で身動き出来ず介護を受けている人は、実印や預金通帳等も(身寄りのない人は預ける人もいないので、)みんな老人ホームが預かることになっていますのでホームの職員が自由に取りに行けます。
自宅介護の場合も同じで、自分で銀行に行けないので預貯金の出し入れは介護に来ている人に頼んでいるのが実情です。
本人が元気なうちは預金通帳のチェックも出来ますがそんな元気がなくなったらどうなるかの話です。
あるいはチェック能力があっても下の世話を受け食べさせてもらっていると気が弱くなってしまい、不正を見つけても口に出して詰問することが出来なくなります。
それでもひどくなれば身内が来た時にそれとなく言うことがありますが、身内がいないと誰にも言えません。
自宅介護の場合、実印や権利証を貸金庫に預けていても、何か必要があるときには、介護に着ている人に代わって貸金庫から取って来てもらうしかありません。
そのついでに中にある金の延べ棒や宝石など持ち出されても自分でチェックしに行けないのです。
勿論印鑑証明はカード利用で発行されますので、介護の人が自由に取って来られます。
今でも子供ではない遠い親戚しかいない場合、本人の意向?によって年金などはいると職員がおろしに行ってホームへの経費支払いに充てているのが普通ですが、これが悪用されるようになった場合の心配を書いています。
今は年金と収支がトントンの場合、身内がいても毎回預金をおろして支払う手間が大変なのでホームに委ねている関係ですから、ホーム側でも死亡後預金の流れが怪しいと問題になるので不正がしにくいのですが、年金以上のまとまった預金等があったり身寄りが全くない場合の話です。
今(5年ほど前に改正された登記法)では、本人確認を司法書士が義務づけられていますが、そこで言う本人とは登記申請している受遺者(遺言で財産を貰うことになった人)が本人かどうかだけであって、遺言が真正なものか否かに関しては何のチェックもなくスルリと登記してしまえるシステムになっています。
銀行の場合、一応預金作成時の本人筆跡と照合が可能ですが、何十年前に預金を始めた時の筆跡との死ぬ間際のグニャグニャの筆跡との照合では分りにくいのが現実です。
老人ホームに入った時にその近くの銀行で新たに預金を始めたときに、もう字が書けないからと職員が代筆することがあります。
さらに書けば、身寄りがいなくて自分で預貯金を管理出来なくなれば職員が好きなようにカードで払い戻していても誰もチェックが出来ないのが現状ですから、遺言を無理に偽造する必要がありません。
文書偽造や無理な遺言書作成強要が起きるのは、不動産を持っている高齢者だけかもしれません。
一定の資産がある高齢者が身を守るには、予め弁護士などに管理を委託しておいて、ホームにどのような資産があるのか知られないようにすることでしょう。
そうでもしないと高額の入居金を払って入居したらその後にみんな使い込まれてしまい、(それでも死ぬまでいられればどうせあの世にお金を持って行けないのでホームに食い物にされても結果はどうでもいいことでしょうが・・)あげくにホームが倒産でもしたら悲劇です。
こう考えて行くと老人ホーム入居時には、年金とホームの毎月の支払が収支トントン程度の資産しかないように、元気なうちにうまく使い切ってから入居するのが合理的です。
結局、「人は必要以上のお金(・・一生かかっても使い切れない資産)を稼いでも仕方がないし、これに執着して仕方ない」と達観するのが良いようです。
財産のある人は泥棒に取られないかと無駄な心配するのと同じで、自分で使える限度を超えた資産を保有するのは不幸の元です。

相続制度改正3(遺留分廃止)

家督相続人・法定相続人である限り廃除されなければ相続出来る・・戦後民法改正(現行法)では、従来の家の制度がなくなったとはいえ、身分・血縁関係で相続分が自動的に決まる点は同じで家督相続から均分相続に変った(廃除制度も旧規定と全く同じ)ことくらいです。
戦後家の制度が廃止されたと大きく宣伝されているものの、実際には先祖伝来の家産・・戸主ないし現在の所有者は半永久的な時間が経過・通過して行く一時点での預かり主に過ぎず、次世代に引き継いで行くべき・・管理者的意識を前提にしたものでした。
自然保護・環境問題には、子々孫々にまで受け継いで行く意識は重要ですが、ここでは相続・戸籍制度維持の必要性の観点から書いています。
現在でも生活に困っていない限り、相続して自分で耕さない遠い故郷の農地でも、あるいは無人になってしまった親の住んでいた家でも無駄だから直ぐに売ってしまおうとしない・・抵抗があるのは、先祖から受け継ぎ子孫に繋いで行く意識があるからです。
戦後民法でも遺言(特段の意思表示)がない限り法定相続どおりになってしまうことと、本来遺言で自由に処分出来るべきところ、家の制度・・先祖伝来の世襲財産価値を重く見る立場から、遺留分制度を設けることによって結果的に遺言の自由は原則として半分しかないことは戦前の民法と全く同じ規定です。
ただし、原則と例外の関係に関する規定の仕方から、先ずは遺言があればその通りに100%効力が生じるようにして、一定期間内に遺留分権利者が遺留分権を行使しない限り、遺言で決めた効力のままになってしまうとする規定の仕方によって遺言の効力が守られやすくなっていますので少し(結果は半分になるのですが)自由処分権に比重が置かれていたことになります。
この規定の仕方は、戦前の民法でも同じでした。
(原文の写真については法令全書で見られますので気になる方はご自分でご覧下さい)
いろんな制度があっても積極的に動いた人だけが実現出来るとすると実際に動く人は少ない・・裁判までしようとするとかなりのエネルギーが必要なことから、その権利・受益実現は限定されます。
次男らは全部遺言で貰った兄弟相手に裁判までしにくいので、遺言がそのまま100%効力を維持出来ることが多くなっていました。
争いが起きるのは、主に腹違いの兄弟がいる場合でした。
このように一定の権利が認められても、その実効性は法の規定の仕方によるところが大きいのです。
April 8, 2011「失踪宣告4」までのコラムで失踪宣告の申し立てまでする人は少ないと書いたのと同じことで、何を有効性の原則にするかで法の実際的効果はまるで違ってきます。
この後に書いて行く遺言の有効性に関しても、現行法のように原則的に全部有効としておくのか、一定の場合・・一定年齢以降や施設入居後は一律に無効としておくのかによって、実際上の効果がまるで違ってきます。
ですから、親族相続に関する戦後の大改正と言っても、観念だけで元々何の効果も持っていなかった家の制度をなくしたくらいで、経済的社会的変化を反映させると言う視点での変化は微温的だったことになります。
敗戦当時はまだ個人の能力次第の社会に殆ど変化してなくて、静的な世襲財産の価値・比重が大きい社会であったからでしょうか。
あるいはアメリカの外圧による仕方なしの改革であって、(何とか旧習を温存しようとする勢力の方が強く)明治維新のときのようにこれからの日本社会を積極的に合理化・変えて行こうとする意気込みが全くなかったからかもしれません。
この点では明治31年の民法は当時の社会実態よりはかなり進んでいたことが分ります。
民法典論争時の誰かの意見を読んだ記憶では、「今は進んでいるように見えても今後10年もすれば時代遅れになるのだから・・」と言う意見を読んだことがあります。
現状よりも大分進んだ法律であった分だけ相続意識の実態(子々孫々に承継して行く中継ぎ意識))に合わなかったので、前向き・自由処分の方法としての利用は少なく、(戦後になってもまだ)逆に戦後は世襲制維持のため・・・均分相続制に対する抵抗として長男に全部相続させる方向へ利用されていた程度だったのです。
意識が遅れていたからと言うよりは、その後の経済発展にも拘らず、なお社会全体に占める世襲財産の価値比重が大きかったことによります。
明治創業の世に知られる一代の成功者(財界に限らず政界でも同様でした)は今同様に能力だけで駆け上がった人が多かったので、直ぐに能力社会になると思っていた人が多かった・・これが明治民法の革新的制度の創設理由であった筈です。
ところが皮肉なもので、明治の大成功者自身が「児孫に美田を残さず」と伝えられる西郷隆盛を例外としてほとんどが成功すると自分の子孫に(財閥を筆頭に大中小の成功者・軍人官僚その他みんな親の築いた地位を残して行く方向へ進みました。
今でもそうですが自分の築いた(大小を問わず)資産や地位を出来るだけ自分の子供に残したい本能があるのは否定出来ないでしょう。
残すほどの資産がない人は、進学競争に明け暮れているのも、その本質は同じです。
明治中期以降社会秩序が固定すると世襲制が却って強化されて行ったので明治末頃から、人材の行き詰まりが出て来て第二次世界大戦へ突入すべく、我が国は窮屈な社会になって行った経過を以前書いたことがあります。
西郷隆盛は、西南の役で途中死亡したから「美田を残さず」の伝説が残っているのですが、彼が最後まで中央でいた場合どうなっていたかは分りません。
明治村にある西郷従道邸を見れば、西郷一族自身世襲の恩恵を受けていたことは明らかです。
明治後期以降は明治初めに創業し大成功した人達が財閥化し、その子孫が世襲の地位財産で良い思いをする時代に入って行ったので、遺言の自由化が進まなかったのは当然です。
米軍の空襲によって壊滅的被害を受けた戦後でも、元々の一文無しが創業出来るものではないので、親世代からの世襲の地位財産(仮に100分のⅠに減っていても資本と言えるもの)を利用して飛躍した人が多かったのです。
戦前の財閥企業がそのまま今でも大きな存在であることを見れば分りますが、財閥に限らず大中小の資本を持っていた人が戦後元の事業を再興拡大して行った点は同じです。
ただ、戦後は明治維新当時同様に旧秩序が解体されたので自由競争がし易くなり業者間の競争淘汰が進んだ点が明治末〜昭和前期までとは違って自由闊達な感じになりました。
更に戦後の大きな変革は、ホワイトカラー層の拡大充実があって、中間層の大量出現を見たことです。
中間層とは、能力だけが自分の主たる主たる資産で(だから進学熱が上がるのですが、これも形を変えた世襲化の思想です)世襲出来るほどの資産や地位を持たないけれどもある程度遺産があると言う意味ですから、これらの階層の相続が始まった昭和末頃からは世襲財産から解放されて個人財産化して来たのです。
ここにおいて初めて、遺言制度の改正が必要な時期になった・・制限的制度から積極的に利用し易い制度への変化が求められているようになったと私は考えています。
遺留分に関しては、07/18/03「遺留分13(民法75)(減殺請求権1)」前後のコラムで紹介していますが、もう一度条文だけ紹介しておきましょう。

第八章 遺留分
(遺留分の帰属及びその割合)
第千二十八条  兄弟姉妹以外の相続人は、遺留分として、次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合に相当する額を受ける。
一  直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の三分の一
二  前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の二分の一
(遺留分の算定)
第千二十九条  遺留分は、被相続人が相続開始の時において有した財産の価額にその贈与した財産の価額を加えた額から債務の全額を控除して、これを算定する。
第千四十二条  減殺の請求権は、遺留分権利者が、相続の開始及び減殺すべき贈与又は遺贈があったことを知った時から一年間行使しないときは、時効によって消滅する。
相続開始の時から十年を経過したときも、同様とする。

上記の通り明治以降現行法まで法定相続を原則にしていて遺言があった時だけ法定相続を修正出来る仕組みですが、世襲制に親和性の高い農業や家業の比重が下がってきた昭和の終わり頃から中間層の相続が始まると相続した人も気楽に遺産を売却して換金化したいと思う人が増えますし、被相続人も自分で稼いで貯めたお金だから、好きな人にやりたいと思う人が増えてきます。
今では数百年前から受け継いで来た資産に頼って生活している人の比重が激減しています。
今の都会人の9割以上の人にとっては、自分の稼いだ分が自己の資産・あるいは自分の築いた能力が生活手段のほとんどを占めている筈です。
こういう時代になれば、自分で築いた地位や資産はその人が自由に処分するのを原則にする・・先祖から引き継いだ資産ではないので、子孫に残して行く義務もない・・遺言で決めて行くのを原則にし、(勿論子供に残したければ遺言で書けば良いのです)遺留分など認めず遺言しない人は遺産の受け手を決める権利を放棄した・・棄権したものとして国庫帰属にして行く方が合理的です。
遺言ですべて決めて行き法定相続人を認めない時代が来れば、血縁関係調査のための記録整備・戸籍簿は不要となります。
その代わり、遺言に関する規制も従来とは違った規制が必要になりますので、これを次回以降に書いて行きます。

相続制度改正2(法定相続制の廃止)

世襲を基本とする経済社会状況下で成立した明治31年民法では戸主による家産の自由処分権が今よりも厳しく制限されていたかと思いたい・・・遺言制度がなかったかと思う人が多いでしょうが、意外に条文を見ると現行法とほぼ同内容の遺言方法と遺留分制度が記載順も同じで規定されています。
明治31年民法でも旧1060条以下で現行法とほぼ同内容の遺言制度が規定されていて、1130条以下には現行法同様の遺留分制度が規定されていました。
直系卑属の家督相続人の遺留分が2分のⅠ(現行の子供の遺留分と同じ)直系卑属以外の家督相続人が3分のⅠ(現行の直系尊属と同じ)で考え方は同じです。
遺留分減殺請求権も行使しない限り考慮されないし、行使出来る期間も現行法と同じです。
廃除(現行法も同じ)しない限り法定相続人を変更・資格喪失出来ない制度もそっくり同じです。
旧975条以下が廃除の規定で、これも現行法とほぼ同じ内容です。
次の旧976条では遺言で廃除を書いておけば遺言執行者が裁判所に廃除請求出来ることなっていて、この場合には法定の事由が不要・・遺言者の意思次第で効果が生じるかのような書き方ですが、これは裁判所への請求を遺言で表明しておけると言うだけで遺言執行者は裁判で前条の廃除事由を証明しないと効力が生じないことになっています。
私の事務所では廃除の遺言を作られていて、(例えば次男に全部やると書いた遺言のついでに長男その他の相続人を廃除すると書いてある遺言が増えてきました)廃除の効力を争ってことなきを得た事件を、ここ数年〜5年ほどの間に2件担当しました。
現行民法を紹介しておきましょう。
内容及び条文の記載の順序も明治31年公布の旧規定とほとんど同じです。
法令全書で旧条文の写真が見られるのですが、コピーペースト出来ないのでそのまま掲載出来ませんが、(推定家督相続人が推定相続人に代わっている程度の文字の変更が中心ですので、遺言・遺留分制度は次のコラムで再紹介します)今回は廃除に関する現行法の条文を紹介しておきましょう。
(旧規定の原文をご覧になりたい方は法令全書をサーチしてみて下さい)

民法(現行)
第八百九十条  被相続人の配偶者は、常に相続人となる。この場合において、第八百八十七条又は前条の規定により相続人となるべき者があるときは、その者と同順位とする。
(相続人の欠格事由)
第八百九十一条  次に掲げる者は、相続人となることができない。
一  故意に被相続人又は相続について先順位若しくは同順位にある者を死亡するに至らせ、又は至らせようとしたために、刑に処せられた者
二  被相続人の殺害されたことを知って、これを告発せず、又は告訴しなかった者。ただし、その者に是非の弁別がないとき、又は殺害者が自己の配偶者若しくは直系血族であったときは、この限りでない。
三  詐欺又は強迫によって、被相続人が相続に関する遺言をし、撤回し、取り消し、又は変更することを妨げた者
四  詐欺又は強迫によって、被相続人に相続に関する遺言をさせ、撤回させ、取り消させ、又は変更させた者
五  相続に関する被相続人の遺言書を偽造し、変造し、破棄し、又は隠匿した者
(推定相続人の廃除)
第八百九十二条  遺留分を有する推定相続人(相続が開始した場合に相続人となるべき者をいう。以下同じ。)が、被相続人に対して虐待をし、若しくはこれに重大な侮辱を加えたとき、又は推定相続人にその他の著しい非行があったときは、被相続人は、その推定相続人の廃除を家庭裁判所に請求することができる。
(遺言による推定相続人の廃除)
第八百九十三条  被相続人が遺言で推定相続人を廃除する意思を表示したときは、遺言執行者は、その遺言が効力を生じた後、遅滞なく、その推定相続人の廃除を家庭裁判所に請求しなければならない。この場合において、その推定相続人の廃除は、被相続人の死亡の時にさかのぼってその効力を生ずる。

戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)

例えば乱暴な話ですが、誰かに相続させたければ遺言を書いておくのを原則にして何も書いていない人は、誰にも相続させたい人がいないとみなして死亡後すべて国庫帰属にしてしまえば、相続人を捜すための戸籍制度は不要です。
現在の法定相続制廃止と同時に先祖伝来の世襲財産継続を前提とする遺留分権制度を全面廃止すべきです。
遺言する人が少ないことと遺留分権があることから、権利者確定のために戸籍登録が必要になっているのです。
急な死亡の場合、遺言を書くヒマがないと言う意見もあるでしょうが、遺言しておかなければ駄目となれば、誰でもたとえば20歳以降は年に1回は遺言を書く習慣にすれば良いし、すぐそうなるでしょう。
それでも書かない人は(遺産と言えるほどのものはないし)誰に遺産が行っても良いと言う人と見なして行けばいいことです。
昭和50年代にサラ金禍が始まった時に私は、どんどん破産申し立てをして行きましたが、その頃はまだ殆ど破産申し立てをする時代ではなく、弁護士が親族などと協議して「出来る範囲の弁済をするから残金を免除してくれ」と言う和解交渉をするのが普通でした。
弁護士仲間からも、私のやり方では借りておいて踏み倒すのを奨励するようなもので法を悪用したやり方であるとして、弁護士倫理に反するかのような言い方をされたことがあります。
これに対して私の反論は、むしろ親族が責任を持って払うようにするから、資力のないものに貸し付けたり過剰な取り立て行為の弊害が起きるのだから、親族は敢然と断れば、次から焦げ付きを恐れてサラ金の方で支払能力のない人には、貸さない・・自己責任の経営になる筈だと主張していたことがあります。
実際私のように破産申し立てする弁護士がどんどん増えて来て、(本を書く人も出ました)困ったサラ金の方で破産されても損しないように自己責任で信用調査するようになり、無理な取り立ても収まり債権管理能力がなく取り立て方法ばかり厳しい悪質サラ金は敬遠されて淘汰されて行きました。
この辺のいきさつは、04/30/02「破産 5(破産は日本の為になるか?1)」前後のコラムに書いたことがありますが、遺言制度も同じで書いておかないと国庫に帰属してしまう分れば、その内みんなこれと言った財産のない人も毎年念のために書いておく習慣になる時代が来る筈です。
遺言が二枚以上あって矛盾する内容の場合、後から書いた方が有効ですから、半年先や5年先のことが分っている必要がないのです。
やりたい相手が代われば、(母から恋人に)そのときに相手の名前だけ書き直せば足ります。
保険金受取人の変更は保険会社に手続きしなければならず不便ですが、遺言の場合年賀状Ⅰ枚書く程度の手間で自筆証書遺言を書けますので(一回だけ弁護士に書き方を習えば2回目からは同じように書けば良いので)書く気になれば簡単です。
その内に高校の授業で一回は、遺言書作成を実習する時代が来るかもしれません。
高校生や20代で自分の何十年先の死亡時の財産など今から考えられないと言う人がいるでしょうが、自分が「今死んだら誰にやりたいか」を考えて今書くことは簡単です。
その時の好きな人とあと半年で別れるかもしれないとしても、その時にまた書き直せば良いことですから、何年も先のことを深く考える必要がありません。
何よりも約束事と違い、何回でも自分の気分次第で書き直しが出来るのでその時々の気分であまり先のことを深く考えずに書けることが分れば、誰でも毎年(年賀状みたい、あるいは日記帳の一部としてに気楽に)書き替えておくのが普通になるでしょう。
失恋した悔しい思いを日記に書いたついでに、次のページに遺言書を書き直せば良いのです。
遺言書と言うと難しいことを書かねばならないかのように誤解している人が多いのですが、大した資産のない人にとっては「自分の遺産全部を誰にやる」と書けばいいので、実は簡単です。
ことを難しそうにしているのは、信託銀行などがあえて小難しく書いて素人には出来ないような印象を与えて巨額報酬をせしめようとしているからに外なりません。
如何にも難しそうに細かく書くと一見有り難そうですが、却って、書き間違えやその後の口座の変更などによって効力を失いかねず、その都度書き換えが必要になり・・その都度信託銀行などが巨額手数料を取るのですが、大づかみに書いておけば修正不要で、やる相手が代わったらそのことだけ書き換えて行けば良いことで簡単です。
私の考えで言えば、細かく書かずに自分の妻や夫あるいは恋人に「全部相続させる」と書いておけば(自転車しかない時に書いて、その後に車も持つようになっても)内容の変更ではなく恋人や友人が代わる都度相手を書き変えるだけで足ります。
気が変わる都度やる相手の名前の書き換えくらいなので誰でも自分で簡単に書けます。
お経も難しそうにして僧侶の価値を高めるやり方から南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の繰り返しで足りるとしたのと同じ発想です。
現在の法制度は遺言しないことを前提・・原則にした制度設計である・・法定相続制度であるから、国民も遺言の必要性を感じないし遺言を書くのは大変なことと教育されて馴染みもないのです。
日記を書いているついでに・・・つきあっている相手が変わる都度受受遺者・やる相手を書き直しておけば、何時突然死亡しても最新の気持ちを反映出来ます。
遺言しない限り自分の好きな人に相続させられないとすれば、子供だとか兄弟と言う身分関係だけでは相続出来ませんので、(もしかしたら貰える期待と言うのも変ですが・・)親しい身近な友人が貰える可能性があるので改正後は相互に友人や高齢者を大事にする社会になるでしょう。
高齢者介護や心のよりどころを血縁に頼りすぎる弊害をこれで是正して行ける筈です。
法定相続制を廃止すると親族かどうか血縁が近いかではなく、実際に親しいかどうかにかかって来るので、少子化・・独身や子供のいない人が増えてくる実態にあった現実的な制度設計になります。
我が国の制度・・・明治31年公布の民法も戦後改正された現行法も、先祖伝来の農地や家業(造り酒屋など)等を相続財産の主たる資産として構想して、結果として戸主が自由に相続人を指定出来ない・・戦後も家督相続制から均分相続に変わっただけでした。
これからは先祖伝来の世襲財産よりは自分一代で築いた財産しか持っていない人が普通になると、子孫に受け継いで行くべき道徳的縛りがなくなり、まして子供のいない人が増えてくると自分の気に入った人に残して行きたい・・あるいは大事なペットをきちんと見てくれるところに寄付したいなどと思う人が増えて来る筈です。
そういう人や相手のいない人は国に寄付・・放置していれば国庫帰属・・・生きて来て世話になった地域・国だけが今の法定相続人の地位(国の相続分を2割、県が3割地元市町村が5割などの比率で)を取得するのが合理的です。
そうなると市町村間で高齢者の取り合いになって身寄りのない高齢者も(資産のある人は)大事にされますよ?

戸籍制度存在意義2

今では年金・選挙権等すべてが住民登録(国勢調査など人口調査もそうです)を基準にしているので、超高齢者が戸籍に残っていても今のところ何の実害もないのですが、仮に住民登録制度が完備してくると戸籍制度を廃止してしまえば、超高齢者がそのままになることはありません。
超高齢者の問題で明らかになったことは、政府は戸籍の記載を基準にして政治をしていない・・何のために戸籍制度が今でも存在しているかの疑問です。
住民登録制度では、生死に係らずその所帯構成員でなくなれば(しかも届け出を待たずに随時調査していて)職権で消除する仕組みですから超高齢者が登録されたままにはなりません。
江戸時代の宗門人別帳で、江戸等へ出たものを除籍していたのと同じですが、江戸時代家族の申し出によって除籍していたのが、今では市の職権調査で消して除籍もやっている違いです。
江戸時代までには、民には義務やリスクのみあったのが、今では人民ニは権利が多くなって・・市の義務が多くなったことから、届け出のない中間的な場合も積極的に抹消して行く仕組みになっているのです。
現在(このコラムは昨年秋頃に書いていたものですが・・・)社会問題になっている年金受給者が死亡後も死亡者の名義で誰かが受給し続けている問題は、戸籍記載の問題ではなく住民登録の問題です。
その住居に現実に住んでいるか否かが住民登録の基準ですから、行方不明者は生死に関わらず直ちに住民登録からは職権消除される仕組みですし、年金や社会保障関係ではこれを基準にして支給しています。
公園で寝ている人やドヤ街での住人は、元の家族から見れば行方不明で住民登録は抹消されているものの、戸籍はそのままに残ってしまうのは、これまで書いているように戸籍制度は現況把握制度ではない以上、当然の結果です。
生死不明の場合、一定年齢で自動的に抹消し生きている証拠のある人だけ登録更新して行く仕組みにするのか、逆に死亡の証拠がない限り消せないのかの制度設計の問題です。
明治以来(国民を目一杯管理したくなって)安易な除籍を防止するために死亡の証拠がいるとする逆転制度にした以上は、証拠のない中間・灰色の人が残って行くのは制度上当然に起きて来る問題です。
死亡したかどうか不明の人が残るのは制度上「仕方がないでしょう」と言えば、如何にも何か害悪がありそうな感じですが今では戸籍を基準に政治をしていないので必要悪でもないし、何の害悪もありません。
あるいは海外移住した息子の場合、その親が死亡してもまだ兄弟の生存中は相互に時々の連絡もありますが、その兄弟世代が死んでしまうと最早日常的連絡も途絶えるので、死亡したか否か誰も分らなくなるのが普通です。
だからと言って誰も戸籍抹消までは出来ませんし、お金をかけて中南米やその他の国に出かけて行って調査する必要性もありません。
「100歳上の人は調査の上抹消しろ・・していないのは政府の怠慢だ」と言う主張を良く見かけますが、そんなことのために膨大な役人が戸籍を眺める手間をかけるのは国費の無駄遣いです。
中間灰色の人・・死亡したか否か不明の人を戸籍に残したくないならば、上記のように制度設計を逆転し、例えば一定年齢以上は毎年本人出頭して更新しない限り自動抹消して行く制度にすれば良いのです。
ただし、今でも戸籍簿に残っていても住民登録さえなければその人に年金支給する心配もないし、勿論生活保護も選挙権もありませんし各種受益がありません。
今では戸籍を基に何の政治もしていないので、戸籍制度自体存在意義がなくなっているので戸籍制度の制度設計を議論する事自体無駄な行為になっています。
現在戸籍簿が利用されているのはここ数日書いて来たように相続に関連した時だけですが、除籍に関する立証責任同様の考え方で、次回以降に書いて行きますが相続の基準・原則をどこにおくかの制度設計次第で戸籍簿を不要に出来ます。

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