ところでわが国行政基礎単位となっている(市町村と言うように最小単位として想定されています)村は、明治政府になって初めて採用された行政対象としての区域概念ですが、(それまではご存知のように「何とかの庄」や「何々郷」の名称で、その関連でムラの庄屋や名主・郷士がいたのです)明治になって何故使い慣れていない漢字「村」をイキナリ持って来たか不明です。
私の家族は東京大空襲で焼け出されて母の実家に帰ったのですが、私の育った田舎は、約1kメートル四方程度の大きさの水田地帯◯◯村でしたが、(当然一つの生活単位としては大きすぎるので、10個前後の集落・・大字に分かれていました)この行政単位を◯◯むらと表現していました。
千葉で弁護士をしていると、例えば市原市の在の人がもとの隣の集落のことを言うのに「何々そん」の人と言う漢字読みをする人が多いのに驚いたことがありました。
市原市の場合、昭和30年代の大合併で市原郡が全部一つの市になってしまった(ちなみに君津郡も同じく君津市1つになっていますので、意外に思い切った県民性です・・千葉県と言っても旧上総、下総、安房の三国が1つになっているので、かなり気風が違うのでしょう。)ので、元の隣近所の村の人を表現するのに「◯◯そんの人」と言うのでした。
(今ではこうした古い人も少なくなってしまったでしょうが・・・。)
私の場合◯◯村(むら)で育ち、自分の住所を書くのにも何時も何々村(むら)大字何々何番地と書き慣れていたので、「むら」と言う表現に既に馴染んでいましたが、多分市原市内の農村地帯の場合「村」と言う漢字の訓読み・・「ムラ」が定着していないうちに全部合併してしまって1つの市になってしまい近くに◯◯村がなくなってしまったからでしょう。
我が国では一般日常用語としては殆ど利用されていなかった漢字で誰もその(訓の)読み方を知らなかった「村」を、明治政府がイキナリ導入したから、馴染みのない漢字読みがそのまま戦後まで市原郡方面では定着していた可能性があります。
実生活範囲と関係のない観念的な行政区域だからそれでいいだろうと言う考え方もあたったでしょう。
現在での道州制論を主張している人が「道」や「州」を訓読みしている(・・意味なんかどうでも良いじゃないかと言うことでしょう)人を見かけないのと同じです。
「村」は従来の集落であるムラよりも規模が大きく、生活共同体的一体感もないので、日本語の何に当てはめて良いのか迷う人が多かったので、訓の読み方が直ぐには普及しなかったので、何々「ソン」と漢読みのママの地域が多かったのではないでしょうか?
「村」(そん)って何だろうねと言っていて十分馴染まないうちに市原郡の場合、戦後更に町村合併で1つの市になってしまい村がなくなってしまったのでそのまま「ソン」と言う言い方が残ってしまった印象です。
明治政府の方針は、従来のムラあるいは郷・庄等の自然発生的集落(水田農耕に必要な最低単位)を大字(おおあざ)小字(こあざ)と命名し、その上の行政単位として「村」を作りその読み方を放置していた可能性があります。
生活圏とかけ離れた観念的行政区域だったのがその後生活圏が広域化していき、あるいは行政区域に合わせた一体感が出来て来た場合、広域生活圏を村をあらたな「ムラ」と読む人が増えて来て、村の訓読み・・ムラが普及し始めたかもしれません。
従来ムラとは生活に必要な生活集団の単位・ムレでしたから、国民意識では政府の強制する字(あざ)こそがムラのつもりでしたので、広域化・一体化が進まなかった地域では、これを「ソン」と読んだままだった可能性があります。
私の育った農村は平らな水田地域でしたので、広域生活圏が意外に早く一体化して行った可能性があり、市原の場合、小規模な丘陵の繰り返しでその間に小規模な水田が湖のように点在している風土ですから、丘陵を隔てた各地域は行政だけ一体化しても生活圏としてはいつまでも一体感が育たなかった可能性があります。
ちなみに村の漢字の成り立ちを見ると、木の所に人が立ち止まって思案すると言う意味らしいです(寸は胸に手を当てて考える意味)が、その後どういう発展・事情によるか(私には)不明ですが、いつの間にか田舎のことをあらわすようになって行ったようです。
明治まで我が国では一般的使用例のない漢字が、これが行政単位として明治政府にイキナリ何故採用されたのか意味不明(私が今のところ知らないと言う意味)です。
漢字の数は膨大にあって日本ではほとんど使われていない漢字が今でも大量にありますが、村もその一つで・・明治までは普通には知られていなかった漢字です。
元々「木の下で胸に手を当てて考える」などと言う漢字を使うのは、よほど物好きの教養人しかいなかった筈です。
例えば、幕末の松下村塾が有名ですが、これは地方組織としての「ソン」ではなく、上記の意味・松の木の下で思索する・・それも「立ち止まって」と言うところが、時代の転換期に吉田松陰が主宰した塾として解釈すればオツなものです。
松蔭は杉家で生まれ吉田氏の養子となっただけで、氏としては松には特別関係がなく、一般的には寛政3奇人の高山彦九郎のおくり名にちなんで松蔭を名乗るようになったとも言われています。
伯父のやっていた塾名が元々松下村塾だったので、これに合わして松蔭と号したのか不明ですが、いろんな意味を合わせてこの号を名乗るようになった時には、既に樹下で立ち止まって思索することの意味を掛けていたのではないでしょうか。
松下村塾の命名自体は伯父の玉木文之進だそうですが、彼自身幼少時から松蔭を鍛え上げた逸材ですから、塾名を考えるときに当時一般的名称ではなかった「ソン」をつけるにはそれなりに深い意味を考えていた可能性があります。
ちなみに松蔭が生まれたのはいろんな解説では旧松本村とあるので、如何にも生まれた江戸時代当時から松本村があったかのようですが、これは萩市に合併される前の名称・・明治以降の市町村制の名称で書いているのか、江戸時代から松本村が存在していたのかまでは分りません。
地元の古い記録を見る必要があります。
(と言っても地元に行けばそれほど難しい事ではありませんから、まじめに解説する気ならば、そこまでちょっとした手間をかけるべきです。)
松蔭が生まれ育った場所としては「団子岩」と言われる高台とされていますので、私の想像では当時から松本村があったのではなく、前者・・明治以降の地方制度でその地域をまとめて松本村となっていたのが、戦後の市町村合併で現在の萩市になった程度の意味で、「旧松本村で生まれた」と観光案内や解説書に書いているのではないかと思います。
ちなみに萩焼は萩城下の松本で開窯されたとも言われますので、松本と言う地域名は古くからあった可能性があります。
宮本「村」の武蔵と言う表現も実は誰かが、(いろんな人がいろんな説を書いているので「宮本村の武蔵」と誰が言い出したか知りませんが・・)本を書いた当時最小単位であった村が昔からある行政組織のように誤解して広めたものかもしれませんし・・。
松下村塾の名を知っている人は無数にいるでしょうが、「村塾とは」立ち止まって考えるための塾だなどとは、殆どの人が思いつかない哲学的にひねった名称ですが、(私一人の独自解釈です・・)「村」と言う漢字にはこうした深い哲学的意味の使用例しか日本にはなかった筈です。
明治政府が(吉田松陰先生を贔屓にしていたのは分るとしても・・)意味の難しい「村」をイキナリ末端地方行政組織の名称に何故したのか政治的意図が不明です。