夫婦財産制1

 

今の我が国では、(特に専業主婦層では)夫婦である以上懐が一つになっているのは当然だと思う方が多いのですが、我が国でも平安貴族の通い婚の時代を想起すればわかるように、有産階級にとっては必ずしも経済・・生計一体が夫婦のあり方だったとは限りません。
何をもって夫婦と言うかの定義自体・時代によって様々ですから今の夫婦を前提に考えるのは間違いとも言えます・・夫婦の熟語については10/17/07「夫とは?2(民法325)」以下のコラムで少し書いたことがあります。
今の我が国では、庶民の場合奥さんが家計管理をするのが普通ですが、これは小規模農家社会が長かったこと(女性管理になりやすいことについては、「離婚の自由度1(貨幣経済)」Posted on October 16, 2010 で紹介しました)とこれを引き継いだ専業主婦が大多数だったことによるもので、他所の国ではそんな事はなさそうですから同じく「夫婦」と言ってもその経て来た社会の歴史によって大分関係が違います。
大統領と言ってもアメリカ大統領とインド大統領やドイツ大統領とは、内容実質が違うのと同じです。
戦国・江戸時代の大名家の場合、輿入れするとその女性及び下女等の付き人の食い扶持として、一定の石高の領地(の上がり・収益)が付随して行く例が有りますが、(秀忠の娘和子の場合など豪勢だったことで有名です)これが幕末まで続いていたかどうかまでは知りません。
・・・幕末有名な天璋院篤姫の場合も、島津家から何千石〜何万石分かの上がりを食い扶持として送られていて、それで局(つぼね)とか部屋を維持していて御付きの侍女・下男などを養っていたのではないでしょうか?
ですから、そこで働く人は嫁ぎ先の家臣ではなく実家からついて来た家臣となります。
忠誠心の系統としてはまるで違うので、家康の最初の妻・築山殿のように武田家に通じる事態も起きて来るし、信長の妹のお市の方が、夫である浅井の裏切りをいち早く信長に知らせたりすることが起きてくるのでしょう。
現在で言えば対外公館・・外交官が駐在国で治外法権を持っていて、駐在武官などを抱えてるのと似ています。
源氏物語の桐壺、藤壷(06/20/10「(1)女房とは?」〜(3)壷からつぼ根へ」ツボネの語源らしきことを書いたことがあります・・・)などの名称は、いわゆる里内裏の出先機関として宮中に引っ越していたような場所としてみることが可能ですから、当然実家でその費用を出していた筈です。
歴史小説などでは戦国大名に嫁いだ女性のことを「お部屋さま」書いていることがありますが、これは平安時代のツボネが部屋に変わったもので、一つの部屋の主としてそこでは君臨していて、武田信玄など「お館さま」が各部屋に通うしきたりでした。
これが江戸時代の側室になってくると、出自が低い(大名家の娘が側室にはならないでしょう)ので、側室の身の回りの世話をする人たちまで嫁ぎ先で丸抱えになって行ったものと思われます。
今では部屋も室も同じように使っていますが、部屋は大名家の館ないの家屋群の中で、独立の一棟(家屋=屋形群の一部?)を意味していたのではないでしょうか?
これに対して室となると大きな一棟の建物の中の区切られた「室」を意味するようになりますので、この面から持ち地位の低下が明らかです。
我が国でも有産層では平安時代を含めて女性の場合、実家の経済力次第・・夫とは家計が別だったことが分ります。
明治以降の家族制度では、現行民法にも夫婦財産契約制が残っていることから分るように、持参金(これは貨幣経済化の進んだ後の熟語です)として持って来た妻の財産権がどうなるかはフランス民法でも江戸期でも重要なテーマだったのです。
(離縁の場合、持って来た持参金を実家に戻すと言うよりは、我が国の大名大身の旗本など有資産家の場合では実家からの何石何十石分の送金・仕送りをやめるだけですから簡単です・・)
しかし、これらは余裕のある有産階級の話であって、歴史に出て来ない庶民・・これが人口のほとんどですが、彼らの場合小鳥がひなを育てるときと同様に生きて行くのがやっとですから、夫婦の持てる力を全部出し切る・・生活資源の渾然一体化・・原始共産制が続いていたとみるべきでしょう。
現在の我が国では都市労働者・・・勤労所得(将来獲得する収入)が中心で、結婚当初から予め契約する程の既存財産がない若者が殆どです・・婚姻後の勤労等の所得は庶民にとっては家計を支えるのがやっとですから家計の渾然一体状態→妻による家計管理が続いていたと言えます。
世界中の庶民は、みんな生きて行くのがやっとで持参金と言えるほどの資産がない筈ですが、我が国と違って他所では男が財布を握る習慣のようですが、これは交易・商業社会が長かったことによる差だと私は思っています。
商業と言っても現在イメージしている店での日々の商いになると、女性管理向きですが、商業の始まりは店舗を構える形態から始まったのではなく、未知の世界に旅立つ砂漠の隊商や船乗り等交易活動が本来の始まりですから、貨幣収入とその管理は男中心になりやすかったでしょう。
これに対して、我が国のように水田農業社会では収穫は年に一回ですし、年に一回の収入を1年に割り振って几帳面に管理して支出して(少しずつ貯蔵しているものを取り出して食べて)行くのは女性向きであって、男性向きの仕事でないことは明らかです。
男の多くは目の前にあるだけ食べてしまうし、あるだけ使ってしまう傾向があるのは洋の東西を問わない性格です。

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