寄留者の管理と神社1

大正3年成立翌4年施行の寄留法(各種文献では施行日を基準にして紹介していますので、大正4年式と紹介されています・・壬申戸籍も同じで、前年の布告ですが、施行が翌年の壬申の年だったので、壬申戸籍と一般に言われます)では既に市町村長への届出になっているので、前回紹介した神社からお札を貰う仕組みとの関連がその後どうなったのか、少し気になるところです。
ちなみに歌の文句では「お札を納めに参ります・・・」と言うのですが、法的には、お札を納めるのではなく、守札を貰い所持する仕組みですから、(しかも6年に一回の検査ですから)一種の身分証明書の機能を期待したのでしょう。
江戸時代には領域を出るときだけ道中手形・・一種のパスポートが必要でしたので、移動自体に許可が要ったとも言えますが、明治になると守札さえ所持していれば移動が自由になったとも言えます。
封建制社会では農民の移動を極端に嫌い土地に縛り付ける事が重視されていたのに対し、明治政府の目指す商業社会化への幕開けの思想的基盤の闡明です。
その代わり明治ではどこか他所へ行く予定のない者(老幼を問わず)までこの所持を強制したと言えますがので移動の自由を縛る目的ではなく、移動の自由を認める代わりに国民一人一人の登録・・管理が重視されていた事になります。
お札不所持に対する効力を書いていないし、居住地内外を問わずお札の所持を強制するのは実情にも合わないので、これがいつの間にかうやむやになったような印象です。
江戸時代までの禁令は禁止するばかりで違反したときの効力が決まっていなかったことを、02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」のコラムで紹介しましたが、明治4年太政官布告はまだ西洋式の刑法の出来る前のことで江戸時代のお触れと同じ形式です。
ただし、いわゆる壬申戸籍も同じ年・明治4年4月の太政官布告第170号で、翌明治5(壬申・ミズノエサル)年2月1日から施行されたので壬申戸籍と言われているものですが、壬申戸籍管理は大蔵省租税寮管理(実務は地方吏員)で神社の管轄ではなかったので、上記神社に関する太政官布告(も同じ明治4年ですが7月4日に第322号で後から出来たことになります)と同時並行だったことになります。
それどころか7月の布告では「来申年正月晦日迄ヲ期トス」・・来たる申年正月晦日までに届け出が命じられ、他方で壬申戸籍の施行がその翌日の2月1日からですから、連携関係にあったことが明らかです。
行政下部組織(当時はまだ市町村制は構想段階程度だったでしょうが・・・庄や郷の村方)管理の戸籍制度と神社のお札(神社も記録して行くでしょう)との併存をどう理解すべきでしょうか?
壬申戸籍の布告を法令全書の手写しでしたものをFebruary 15, 2011「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、ここで再度紹介しておきましょう。
前文によれば、管内社寺ヘ達しておくようになっていますが、これは人生の始終を詳らかにする・・・生死の行事は古来から社寺で執り行っていたからでしょうか?
但し、中には神社へ参りしない人もいたでしょうから、その脱漏を防ぐために神社へのお参りを強制したのが同年7月4日の太政官布告第322号だったかもしれません。
そうとすればお寺も神社もそれぞれの役割を期待されていた事になります。
(ただし、神社は生まれた子供が漏れないようにするので、政府に取っては重要ですが、寺は死亡者の届け出だけですから現世の政治には関係がなかった・・死亡者が戸籍に残ったからと言って政治的に重要性がなかった事になりますが・・・。)
とは言え、前回(3月5日)紹介の太政官布告第322号では戸長の証書を持って神社へいくのですから、その条文から云えば、先に戸長への届け出が義務づけられたことになります。
政府としてはその最末端の行政組織である戸長への届出さえあれば、それだけで国民把握は十分ですから、その後の神社の協力は不要だった筈ですから、何のために神社の協力が必要だったのか不明です。
この間の政治の動きを見れば、壬申戸籍の草案〜布告(4月)段階ではまだ社寺の協力必要との認識であったので、社寺へのお達しをし、そうすると神社側では「神社へお参りをしない人までは分りませんよ」となります。
神社側の要望で「法でお参りを強制してくれないと困る」となって王政復古のスローガンとの兼ね合いもあって7月の太政官布告になったのでしょう。
その追加的太政官布告322号が出来上がる間での間に、既に次年から全国的に制度化される「戸長」制度が一部動き出していたので、その布告の中にまだ制度化されていない「戸長」の認証を要する旨が書き込まれてしまったのではないでしょうか。(莊屋から戸長制度への変遷については、この後にざっと紹介します)
今の法制定実務からすれば、来年何月の戸長制度実施のときからは、戸長の認証がいるとしておけば良かった事です。
戸長制度が動き出すとそこで出生から死亡前の登録もみんな戸長の行う戸籍登録で間に合うのですから、神社へお参りをするように命じた太政官布告は、この時点で不要になった筈です。
言わば蛇足・・結局王政復古のスローガンに合わせたリップサービスの域を出なかったことになります。
前書きが長くなりましたが、、壬申戸籍発布の布告の大部分を紹介しておきます。
この冒頭に府藩縣とあるのは、廃藩置県がこの年7月14日ですから4月はまだいわゆる3治体制下でまだ藩が残っていたからです。
(原文は縦書き・旧字体が簡単に出ない漢字は現在の漢字になっていますが原文は全部旧字体です・文中◯は写真なのではっきりしないのですが、欠字のような印象で空白がある部分です)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

寄留地2(太政官布告)

寄留の話に戻します。
法の世界では、05/12/10「仏教の衰退5(廃仏毀釈4)」のコラムで既に紹介しましたが・・お寺の宗門人別帳から神社登録制度になったときの明治4年の太政官布告第二条但し書きに「寄留地」が既に現れています。
もう一度紹介しておきます。
以下の条文では生まれると先ず姓名住所を書いて届けますが、「現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ」ている時には寄留地最寄りの神社に(戸長に届けた上で)参ることとされています。
修行と言うと武者修行をイメージしますが、今で言う親元から離れて技術修行(・・結局は見習い・奉公人を含むでしょう)や勉学のために大都会に出ている程度の意味でしょうし、今の留学の語源はこの辺にあるのかもしれません。
この布告では、今後生まれると直ちに届けることとし、この布告の時に(まだ守札を所持していないものは老幼を問わず)住所地と寄留地の2通りの届け出があったことになります。
ここでは寄留の定義がありませんので、どの程度安定居住した場合、寄留になるのかは常識に従って届けると言う扱いだったのでしょうが、次に紹介する寄留法では90日以上の定住と決められています。

第322 太政官 明治4年7月4日
今般大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事
 
 規則
 1 臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
   但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ   示スヘシ
 1  即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸   長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ
   但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手   続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
 1 他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
 1  死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
   但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神   霊主ヲ作ルモ可為勝手事
 1 守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
 1 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
 1  守札ヲ受クルニヨリ其神社へ納ル初穂ハ其者ノ心ニ任セ多少ニ限ラサルへシ
右ノ通ニ候條取調相済候へハ早々可届出尤不審ノ廉有之候ヘハ神祇官へ可承合侯事

上記のとおり各地神社への寄留地登録・・氏子制度が発展して行き、(これと無関係に?)戦後住民登録制度の前身となる寄留法(大正3年・1914年法律27号)寄留手続令(大正3年勅令226号)および寄留手続細則(大正3年司法省令10号)に繋がって行くのです。
大正3年の寄留法(大正3年法律27号)同4年施行で寄留届け出義務があるのは、本籍地外で90日以上一定の場所に定住するときですから、90日も一定の場所にいれば一定の根が生えた・・寄留したと言うことでしょう。
今は住所を定めたときから届け出義務がありますが、当時は住所と言う観念的基準では分りにくいので90日以上定住すれば先ず機械的に寄留にあたると定義付け、届け出を義務づけたものと思われます。

牢人から浪人へ

 

小説などでは作州「牢人」などの表現を時々見かけますが、江戸時代前期頃まで・・再就職の容易な時代までは何故堅牢の「牢」になっているのか不明です。
武者修行中の宮本武蔵に対して、これを使うと何となく意志堅固な印象があって、それなりの効果はありますが、本当に当時からそう呼ばれていたのかについて不思議に思うのは私だけでしょうか?
江戸時代初期には戦国時代の生き残りで意志堅固な浪人もいたでしょうが、江戸中期になると経済成長が止まってしまったので食い詰めた長期失業者を意味するようになると浪々の身を現す浪人となり、幕末になると思想的立場で脱藩した武士も増えて来て水戸浪士や勤王の志士など再び前向きのおもむきで小説などでは表現されます。
(赤穂「義士」の表現は明治・大正になってから発達した講談で、浪人ではイメージが悪いので美化して広まった表現であって、事件のあった当時には「義士」と言っていたとは思えません)
明治の廃藩置県・廃刀令・家禄の公債化によって失業した元武士に対しては、不平士族と言うマイナス名称が付与されました。
このように見て行くと元々「浪人」と言う用例は(昔からもしかして少しくらいあったとしても)一般化していなかったように思えます。
今では、牢人は室町から江戸時代初期までの用法で、その後は浪人になったとわざわざ時代区分までされて解説されていますが・・最近の時代小説はそのように書き分けていると言うだけで、室町時代までの文書の引用もなく・・根拠不明です。
私は法律家ですので、原文らしきものの引用がない説明だけでは落ち着かない性質です。
そもそも、江戸時代に失業した武士と違い戦国時代までの武士は地盤を持った自営業でもあった(足軽とはそこが違います)ので、武士の方が主君と言うより支持していた上位者を見限ってあっちについたりこっちについたりしていたものです。
地方豪族はこうした国人層に支えられていたし、大名は小豪族の多数支持で成り立っていました。
最近上杉家重臣の直江某の物語がテレビ放映されて有名になっているので(私は見ていませんが・・・)多くの方がご存知と思いますが、武士と言えばそれぞれが大小の区別があっても自分の領地・地盤を持っているのが当時の仕組みです。
ですから地元に根付いた武士の支持を失って失業・落ちぶれるのは大名小名クラスであって、武士自体は自分の直接の耕地・耕作者・地盤を持っていた・・半農半士でしたのでどこかの家人をやめて・・出仕をしないで帰っても生活に困ることはなかったのです。
源平の合戦に参加して負けた源氏や平家自身は落ちて行くところがなくなりますが、それぞれに参加していた一段下のクラス鎌田正家などは、国許に帰ればそれぞれ安定した地盤を持っていたことを見れば明らかです。
サラリーマン化したのは、戦国末期に先祖伝来の地盤を持たないでイキナリ出世した武士・・傭兵のごとく戦闘専門化した武士に限られたでしょう。
戦国中期頃までは、普通は自分の一定の地盤を基に配下・一定武力を持って参加していたのをやめるだけですから、失業してウロウロしていたと見るのは間違いですし、この頃は仕官の口を求めて(地盤を離れて)浪々して諸国を歩く牢人などは本来存在していません・・地盤を追われてしまうのは限られた場合だけ・・例外現象だったでしょう。
職を求めるようになったのは、伝来の地盤を離れて武士がサラリーマン化した後の現象と見るべきでしょうから、浪人以前に諸国をウロウロする種類の人材が仮に存在していたとしてもごく少数でしかなく、社会現象とまでは行かなかったように思われます。
古くは山中鹿之介、戦国末期では長宗我部・真田幸村のような根拠地を追われた元武将や腕一本で世間を渡り歩く後藤又兵衛・塙団衛門などいわゆる豪傑などがいたことは確かですが・・彼らを当時世間で牢人と言っていたかは疑問です。
信州の牢人真田幸村などの表現・・名乗りを聞いたことがありません。
ただし、今日タマタマ宗門改め関係のデータを見ていたら、「牢人」と言う単語が出てきました。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hozonpage1.htmの日本の戸籍制度――江戸時代からの引用です。

   寛永16年〔1639年〕の大阪の菊屋町の「宗門改帳」の例(以下省略)
  一 此以前ヨリ切々被仰付候吉利支丹宗旨御改之儀、毎年町中五人組
   借家之者共候致吟味油断不仕候事
  一 吉利支丹宗旨之者ニ家をかし候者ハ、家主たとい宗門にて無御座候
   ても御成敗、両となりハ闕所ニ可被仰付候、堅御触之上は油断ニ在間
   敷候事
  一 他所より参家買者并借屋かりニ参候もの町中立合宗旨改寺請を立たせ
   置可申候事付、牢人に宿かし候儀、大坂惣年寄印形指上切紙不申請かし候 
   ハ、五人与共ニ曲事ニ可被仰付候

1639年の宗門改めのお触れの中に「牢人に宿かし候儀」=「牢人」に宿を貸す場合の掟が書かれています。
牢人に対しては、宿を貸すだけでも惣年寄の承諾書を要求していて厳しく制限していたことが分ります。
この実例によれば牢人の呼称は、この頃までには実在していたことになります。
牢人は家を借りるところか、一晩の宿さえ簡単に借りられない仕組みですから、「どうすりやいいの!』となります。
この頃には、既に就職難の時代ですから、戦闘能力の高い武士が職を失いウロウロしているのは危険きわまりない・・・政権側では牙を持ったオオカミがウロウロしているように危険視していたのです。
失業武士に対する厳しい政策が、慶安4年(1651年)由井正雪の乱を引き起こしたので、牢人が農民等に転向して行って次第に減って行ったこともあって、幕府は藩の取り潰しを緩めるとともに宥和政策に変化して行くのです。
それにしても何故「牢」などと言う漢字が当時用いられたのか(私の国語力では)今のところ理解不能です。

 浪人2

今回は室町から江戸時代初期までは牢人と言い、中期以降は浪人と言うようになったと言う一般の理解に対する疑問・・・江戸中期以降・失業した武士が職を求めて諸国を浪々していたかの疑問がテーマです。
武士を召し抱えることが出来るのは大小名しかなく、江戸時代中期以降は、どこでも財政難・・人減らしに躍起でしたから、よほどの才能がなければ新規召し抱えを期待出来ませんでしたし、大名は妻子とともに江戸詰めの期間が殆どですから、自ずから藩政の重要事項も江戸屋敷で決める習慣になっていました。
こうなると職を求めて諸国をウロウロしていても、歩行距離が伸びるばかりで就職のチャンスは滅多にありません。
Aの城からB〜Cの城まで順に歩くよりは、江戸の大名屋敷を巡った方が効率的ですし情報も豊富です。
しかも国元には責任者不在ですから、今で言えば本社採用希望者が地方の工場を訪問しているようなことになります。
徳川政権創業当初は、諸大名の政治は国元中心の政治でしたが、何代も江戸屋敷で生まれ育つことが続くと国元へは「帰るのではなく出張する」ような実態になっていた・今の企業で言えば3〜4代前に創業したときの工場が地方にあって創業者の故郷としても、4代目の社長が東京本社からその工場を訪問するような感じになります。
徳川政権が安定したころには、失業者はチャンスを求めて江戸(蔵屋敷関係の才能のあるものは大阪)に集中することになりますので、江戸中期以降職を求めて諸国をウロウロする習慣はなくなっていたことになります。
後述する新井白石も、失業中は諸国をウロウロしたことはなく江戸にいたのです。
職を求めて諸国をウロウロするから、浪人と言うようになったと言う現在の説明は、実態に合わないばかりか、室町時代以降江戸時代初期までは牢人と言っていたのが江戸中期以降、浪人と名称が変わったと言う一般的に行われている説明はなおさら無理があります。
むしろ群雄割拠の戦国時代の方が、腕に覚えのある英雄豪傑が諸国を遍歴することが多かったでしょう。
ウロウロするから浪人と言うのは、江戸中期以降の求職活動の実情に合っていないので、この頃から浪人と言うように変わったと言う説明は無理があります。
大塩平八郎の説明も元天満与力と言うのが普通で浪人とは言いませんし、新井白石も失業していた期間がありますが浪人新井白石と言いません。
浪人と言う用例が何時から一般的に使われるようになったかの疑問ですが、戦後学歴主義・・進学熱が高まってくると受験に失敗して再挑戦中の受験生が増えて社会問題になりましたが、彼らに対して、受験「浪人」と言う名称が普及していたことは私が実際に経験しているので間違いはありません。
これは再挑戦してに苦労している状態を江戸中期以降の浪人のイメージに重ねたもので、ゼロからの創作ではなかったかも知れませんが、元々一般的ではなかった用語をリメイクしてヒットさせたに過ぎないように思われます。
もしかしたら浪人と言う言葉はこの頃から一般化したに過ぎず、もしも過去にあったとしても受験浪人ほど一般的用法ではなかったにもかかわらず、戦後受験「浪人」が一般的になったので、時代小説を書く際に如何にも昔から一般に使われていた言葉であるかのように利用するようになった疑いがあります。
過去の用例を見て行きますと、主家を持たない武士が全部浪人かと言うとそうではありません。
近江聖人と言われる中江藤樹のように親の世話をするために退職しても故郷で塾を開いている人もいるし、平賀源内や松尾芭蕉あるいは一派を立てて剣道場を開いていた有名な人が一杯います。
武士=仕官していなければならないものではなく、上記のように武士でも自活能力を持てば主家がなくとも浪人とは言わないのです。
ただし、戦闘員だけを武士と言うならば、平和な社会では自立・自活出来るのは山賊ぐらいしかいないことになりますので、剣道場主以外で塾を開いたりして自立している人は本来の武士をやめた人・教育者や産業人と言えるかもしれません。
飽くまで武士・戦闘能力にこだわっていて平和な時代に自活する能力がなく主家を持てない・・職を求めて失業中の人だけを浪人といったのでしょうか?
しかし江戸中期以降では、戦闘能力の高さだけの売りでは、特に優れていた場合でも剣道場を自分で開くくらいが関の山で採用までは滅多にされません。
上記のように戦闘能力だけにこだわる失業者を浪人とする定義ですと、再就職は絶望的でその内に食い詰めて行くばかりで短期間で飢え死に必至(あるいは犯罪予備軍)の状態の人をさすことになってしまいますから、こういう人は直ぐに死に絶えて行ったか、生き残るために武士をやめて農民化等転職して行った筈で、社会的階層を形作るまでは行かなかったでしょう。

浪人1と浮浪者

 

失業中の浪人でも長屋などに落ち着くと、生活手段にある程度見通しがついた状態ですから、一応根を下ろしたものとして寄留者に昇格していたのかも知れません。
寄留者になる前の状態を何と言うのでしょうか?
寄留前は胞子がふわふわしている状態に擬せられるとすれば、寄留になる前は浮浪者・浮浪人と言ったのでしょうか?
浮浪者と浪人の違いは何でしょうか?
浪人とは長期休職中の失業者を現在では意味するようですから、それなりに前向き・・・今の受験浪人が最もポピュラーな存在ですが、進学する予定もなく無職でぶらぶらしてたむろしている少年とは違い受験浪人は前向きですから、働く気がなくなった浮浪者よりはもう少ししっかりした印象です。
公園などに寝泊まりしている人を浮浪者と言うのは浪人に「浮」を上乗せしてふわふわした(求職意欲を持たない)印象を現した熟語になって定着したのでしょう。
親元にいる少年がプラプラしていても浮浪者とは言わないので、借家であれ何であれ、住む家の有無(毎晩寝る所が決まっていても公園の一隅では駄目です)が大きな要素になっているようです。
定住社会が長かった我が国では、人と土地の親疎・定住の度合いによって区分し、他所者その他定住の度合いに応じたいろんな呼び方が発達したのかもしれません。
ところで、戦闘員としての武士が退職した場合、就職先となれる一定地域の支配者が乱立していない限り再就職先は一人しかいませんから、そこから解雇・退職すれば、その領域内にいたのでは再就職先がありませんので、その地域から出て行くしか生きて行く道がありません。
職を求めて他国に出てウロウロしている状態になるのがほぼ100%ですから、その状態を浪々の身=浪人と表現したものと推測されていますが、これは現在から推測で言っているだけなのか、当時からそのよう言っていたのかについては疑問があります。
戦国時代や経済活動の活発な時代には、武士に限らず組織から離脱しても直ぐに再就職や自分で一定のグループを作ったり独立自営出来たので、失業期間が短かったのですが、経済活動が停滞すると退職=長期失業に直面するようになります。
江戸時代中期以降は経済活動が停滞していたので各大名家もリストラ含みですから、一旦主家から離脱すると再就職が望み薄ですので、一時的失業を意味するよりは、その人自体の属性・一種の身分にまで変化して「浪人」と言う一種の身分呼称が形成されて行った印象です。
浮浪者と浮浪人の違いにも繋がりますが、「者」は「人」に比べて一時的な意味合いが強い・・何時でも立ち直れる・・意欲を持ち直して欲しい社会の期待があるのでしょうか?
これに対して浪「人」となると、もう這い上がる見込みない・・ずっと浪人のままと言う烙印を押されたことになるのでしょうか?
現在の用法でも、生産「者」も大多数の場面では消費「者」ですし・消費者もある場面では供給者になりますし、今日の勝「者」は明日の敗「者」とも言います。
観覧者、鑑賞者やラジオ聴取者、入場者、出演者、退場者も一時的な区分けに過ぎず、人の属性ではありません。
「者」は、いつでも立場の入れ替わる一時的立ち位置・・現在何かを「している人」を意味しています。
これに対して日本「人」が突如アメリカ「人」に簡単に入れ替わることはないし、入場・乗車料金の基準である小人と大人も簡単に入れ替われません。
今では簡単に移住出来ますし国籍変更も簡単ですが、それでもどこから来た人かが重視されますので地域属性は簡単に変わらないことを前提にして、どこそこの「人」大阪の人京都の人、千葉の人と言うのですが、将来移住が頻繁になって来ても神戸者、千葉「者」東京「者」埼玉者、奈良者とは言わず、広域化した呼び方・・首都圏人、中部圏人、大阪圏人と言う呼称に広がる程度でしょう。

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