区制2(中学)

元々江戸時代までの集落は、集落構成員が生存に必要な限度で営む水田灌漑設備の共同維持管理に必要な規模・・自然発生的な集落に過ぎず、何らかの政府の施策を貫徹する・行政に必要な単位ではなかったので、古代からの血縁中心集落のままで江戸時代まで変化せずに苦労がなかったのです。
近代国家になって政府が学校や上下水道・保険・医療その他政策実現に必要な行政単位としてこれを見ると、血縁を基本にした古代からの小規模集落では、対応しきれなくなることは明らかです。
行政単位としての市町村では対応しきれない分野に関しては、広域市町村連合や組合を構成しているのは今でも同じですが、(消防組合や広域上下水道組合や医療機関など)明治始めの集落は今の行政単位とは比べ物にならない小規模なものでしたから、行政単位を大きくして行くのは時間がかかるのと・戦国時代の豪族や国人層の連合みたいになって効率的ではない・明治政府の目指す中央集権国家向きではないので、先ず行政
目的別の区を作って行ったと思われます。
現在でも行政単位とは別の選挙区制や学区制その他が残っていますが、学区制を例としてみておきましょう。
元は江戸時代までの集落を基本にすると行政単位が小さすぎて(10数戸から数十戸の集落単位では)小学校を集落ごとに作れなかったから集落単位を超えて、おおむね500戸を基本として一つの小学校を作ったことから始まったことでした。
選挙区制も今では小選挙区ですが、それまではいくつかの市町村がまとまって一つの選挙区でした。
小選挙区制の今でも千葉市の例で言えば、千葉市の若葉区が佐倉市と同じ選挙区になっていて、緑区が市原市と同じ選挙区になるなど行政区域と選挙区は一致していません。
明治五年壬申七月太政官布告第214号で漢字仮名混じり文の優しい形で学問の必要なことを解き明かした珍しい布告がありますので、煩を顧みずそのあらましを紹介し、これを受けた明治5年8月の別冊の学区制を紹介しておきましょう。
勉強は自分のために必要なことであることを縷々述べた最後は自分でお金を出すべきである・政府に頼るなと言う諭しです。
「人々自(みづか)ら其身を立て其産(さん・しんだい)を治(をさ)め其業(げふ・とせい)を昌(さかん)にして以て其生(せい・いっしょう)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩(をさ)め智(ち・ちえ)を開(ひら)才芸(さいげい・きりょうわざ)を長(ちょう・まず)ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学(がく・がくもん)にあらざれば能(あた)はず是れ学校(がくかう・がくもんじょ)の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算(にちようじやうこうげんぎょしょさん・ひびのみのおこないことばづかいてならいそろばん)を初(はじ)め仕官(しくわん・やくにん)農(のう・ひゃくしやう)商(しよう・あきんど)百工(ひやくこう・しよくにん)技芸(ぎげい・げいにん)及び法律(ほうりつ・おきて)政治(せいぢ)天文(てんもん)医療(いれう・やまひいやす)等にあきんどしよくにんげいにん    おぎて至る迄凡人の営(いとな)むところの事学(がくもん)あらさるはなし人能く其才のあるところに応(おう・まかせ)じ勉励(べんれい・つとめはげみ)して之に従事(じゆうじ・よりしたがひ)ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問(がくもん)は身を立るの財本(ざいほん・もとで)ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路(どうろ・みち)に迷(まよ)ひ飢餓(きが・くひものなき)に陥(おちひ)り家を破り身を喪(うしなふ・なくする)の徒(と・ともがら)の如きは畢竟(ひつきやう・つまり)不学(ふがく・がくもんせぬ)よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来(じうらい・もとから)学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向(はふこう・めあて)を誤(あやま・まちがい)り学問は士人(しじん・さむらい)以上の事とし農工商及婦女子(ふじょし・をんなこども)に至っては之を度外(どぐわい・のけもの)におき学問の何者(なにもの)たるを辨(べん)ぜず又士人以上の稀(まれ)に学ぶものも動(やや)もすれば国家(こくか・くに)の為にすと唱(たな)へ身を立るの基(もとゐ)たるを知(しら)ずして或は詞章(ししょう・ことばのあや)記誦(きしよう・そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談(くうりきよだん・むだりくつそらばなし)の途に陥(おちい・はまり)り其論(らん)高尚(かうしよう・りつぱ)に似たりといへども之を身に行(おこな)ひ事に施(ほどこ)すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしう・しきたり)の習弊(しうへい・わるきくせ)にして文明(ぶんめい・ひらけかた)普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏(びんぼう・まずし)破産(はさん・しんだいくずし)喪家(そうか・いへをなくす)の徒(と・ともがら)多きゆゑんなり・・・・中略・・・・・・・
但従来(じうらい・これまで)沿襲(えんしう・しきたり)の弊(へい・くせ)学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費(がくひ・けいこりよう)及其衣食(いしよく・きものくみひも)の用に至る迄多く官(くわん・やくしよ)に依頼し之を給(きふ・くださる)するに非ざれば学(まなば)ざる事と思ひ一生を自棄(じき・じぶんからすて)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後(いまからのち)此等の弊(へい)を改め一般(いちどう)の人民他事(たじ・ほかのこと)を抛(なげう・すてをき)ち自ら奮(ふるつ・はげみ)て必ず学(がくもん)に従事(じゆうじ・よりしたがい)せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
地方官において便宜解釈を加えて小民に至るまでで漏れなく申し諭し、文部省規則に従い学問普及致し候様・・・として、以下文部省布達第13号の別冊になるのです。
別冊
第五章 一大学区ヲ分テ三十二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二百五十六所トス
第六章 一中学区ヲ分テ二百十小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六千七百二十所全国ニテ五万三千七百六十所トス
第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計り便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ

上記のとおり、中区に一つの中学その中区に210の小区=小学校を置く仕組みでしたから、明治の初めには中学はかなりのエリートだけ・・・中学と小学のⅠ学年の生徒数が仮に同じ規模とすれば、小学卒業生の内210人に一人の進学率を計画していたことになります。
ちなみに現在の学制・・大学中学小学の分類は「変なものだなあ」と子供の頃から思っていましたが、生徒身体の大中小の意味ではなく元は学区が大中小に別れていてその大区に一つ作るのが大学(帝国大学)中区に一つ作るのが中学と言うのが語源であったとすれば意味が分かります。
この呼称がそのまま戦後の新制中学に引き継がれたと言う次第です。
地域の実情を無視した機械的な区割り制度は後に教育令で変更されますが、学校制度の構想が最初はこんなものだったことが分ります。
私の子供の頃・・すなわち戦後の新制中学発足後ですから、一つの村に一つの小学校校・中学校が普通でしたが、まだ高校はいくつかの村に一つでしたし警察署もそうでした。
これが行政単位の合併の繰り返しによって、今では行政単位の規模の方が学区の規模を追い越してしまい、一つの市町村にいくつも学区が出来ている状態です。
子供の進学のときに頭を悩ませる(越境入学など)ご存知の学区制・・は、このときから始まっているのです。

末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

寄留者の管理2(旅館業法1)

戸籍制度整備・・準備が進むに連れて、お寺の従来の権限をどうするかの議論が当然あったでしょうが、宗派の管理は明治政府にとって重要なことではなかったので、住所登録まで行かない現地所在場所の管理・・現況把握の必要性だけが議論になって行ったのでしょう。
現地登録制度がないままですとせっかく除籍(江戸時代の無宿者扱い)を禁止しても、親元で息子の居場所についていい加減な場所を申告しているかどうかの突き合わせが不可能になります。
寄留者の滅多にいない農村地帯は別として都会では、寄留者の比率が高かったでしょうから、これが現にどこにどのくらい住んでいるかの把握が行政上必須です。
前回書いたように代々の居住者よりは、移動性の高い人物の方が政府にとってはより把握の必要性が高かったからです。
現在でもホテル等に宿泊するには宿泊者名簿の記載が法律上要求されているのはこのためです。

旅館業法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十八号)

第六条  営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2  宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。
第十二条  第六条第二項の規定に違反して同条第一項の事項を偽つて告げた者は、これを拘留又は科料に処する。

ホテルに泊まる時に、浮気がばれないように気楽に偽名で止まる人がいるかもしれませんが、上記のとおり、お上のご機嫌に触れるとこの法律を楯に言いがかりみたいな嫌疑でイキナリ身柄拘束されても文句言えません。
その議論の中で現地登録機関・・身分証明書発行程度の機能をどこに認めようかとなったと思われます。
明治初期には、行政組織による管理・把握に不安があったので、全国展開している組織であるお寺か神社に・・従来どおりお寺に任せるか、新たに神社に任せるかの議論は当然起きたと思われますが、3月5日に紹介した明治4年太政官布告322によれば、過去のいきさつがあって神社に軍配が上がったものと思われます。
徳川政権の人民管理の下請け的立場にあったお寺に対する反発と今後日本は神道で行くと決めた方向性もあり、さらにはお寺は葬式仏教化していて、お寺参りなどは先祖のあるところで行うに過ぎず、寄留地・出先にいる人がその近くのお寺には縁が薄いことから、現況把握に向かない点もあったでしょう。
どういう議論があった結果か分りませんが、結果として上記太政官布告によって神社が寄留者にお札を授けることになり、その受付簿を整備して行けば・戸籍地に同居していない寄留者管理用の名簿を現地で備えられる方向に発展可能だったことが推測出来ます。
これが寄留者登録機関として発展しないで、何故消滅してしまったかの関心でこの辺のコラムを書いています。

寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

宗門改めから戸籍整備4

徳川政権で認められていた仏教寺院の宗門人別改め権限(・・このときでも登録は名主層等村役人の仕事でした)を取り上げて、これを神社に移管した象徴として前回紹介した太政官布告が一般的に紹介されているようですが、実態は違うようです。
国民管理構想は壬申戸籍どころかその前の明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し示した、京都府編製の戸籍仕法書(長州藩の制度が採用されたとか言います)が頒布されて全国施行された庚午戸籍(明治3年3月施行)に始まるようですが、このときから既に名主等の旧組織利用による言わば行政府が独自に管理する方向で準備が進んでいたもので、江戸時代との違いはお寺抜きになっただけです。
戸籍制度の直後に布告された前回紹介の布告が宗教選別権をお寺から取り上げて神社に与えた布告であるとは一概に言えないでしょう。
全国版ではないので法令とは言えませんが、明治政府は天皇の行幸に間に合うように東京だけの戸籍管理を応急的に実施していますが、この段階で既にお寺経由ではなく、名主制に代えて年寄りの仕事になっていたこと(お寺や神社の関与がなくなったこと)が分ります。
この戸籍管理は、東京には脱藩浪人や失業武士が溢れていて治安に問題があったので、(治安維持名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成・鎮圧された経過を想起しても良いでしょう)彼ら旧幕臣ら失業武士の実態把握・・第一に治安確保目的に人別管理を行うために急遽実施していたのがその基礎にあります。
今でも地域の交番は、域内居住者の動静把握に熱心ですが、治安維持にとって先ずどこにどういう人が住んでいるかの情報把握こそが、基礎・第一歩です。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_nihon_k1.htmからの引用です。
「東京では明治2年〔1869年〕3月ころに「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」(以下これを二法という)が施行されていた。
 それは同月の天皇の東京行幸と遷都に関し、東京の都市下層窮民の救済と無禄無産の者の取締、総合すれば治安対策のために制定された。
 とりわけ「脱藩者」への取締が急務となっていた。彼らが生活に窮し暴動など起こされては遷都自体が無意味になるからである。
 同月10日に市中改正により旧名主が廃止され、彼らの入札により中年寄、添年寄が任命され、50区制が発足した。彼らの第一の仕事が帳籍編製だった。まず、「現在人別調」をこの時点ですでに「入別入」している者と「無人別」の者とに分け、別々の帳籍に登載して把握するというものであった。
 こうして把握された「脱藩者」などが全国各地の開墾事業に動員されたのである。
現在、静岡県では茶の栽培が有名であるが、これもそのときに行われた旧武士階級の救済のためのものである。」
とあります。
明治政府は元々脱藩者・・浪人・武士の失業者は存在自体が危険な存在としてどこに誰が住んでいるかの実態把握を急いでいたので、彼らが真言宗か浄土宗か(仮に切支丹であっても)にあまり関心がなく、先ずは誰がどこに住んでいるのかの実態把握を急いでいたのです。
その記録ついでに、宗派も分れば良い程度であって、お寺による宗教に関するチェック機能を事実上問題にしていなかったと見るべきでしょう。
宗門改めのお触れをMarch 4, 2011「牢人から浪人へ」のコラムで紹介しましたが、江戸時代初期以来刃物を持った武士の失業者は、切支丹同様に危険視されていたのです。
天草の乱も浪人が関与しなければあそこまで大きな事件にならなかったでしょうし、明治になってから起きた上野の山の彰義隊の戦い・各種不平士族の反乱は士族がいなければ事件にならなかったし、有名な秩父困民党事件も浪人・失業士族が絡んで騒ぎが先鋭化したものです。
現在のリビアの争乱も、デモ隊側に寝返った元兵士がデモ隊側に参加し、内乱の様相を呈してくると政府軍側も丸腰の民衆・デモ隊相手とは違い武装兵士相手なら思い切って銃火器の使用をしやすくなり、却って争乱が長引き・・一種の内乱状態に発展してこれまでアフリカ諸国で長引いた内乱に似た状態になりかねないリスクを抱えています。

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