寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

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