牢人から浪人へ

 

小説などでは作州「牢人」などの表現を時々見かけますが、江戸時代前期頃まで・・再就職の容易な時代までは何故堅牢の「牢」になっているのか不明です。
武者修行中の宮本武蔵に対して、これを使うと何となく意志堅固な印象があって、それなりの効果はありますが、本当に当時からそう呼ばれていたのかについて不思議に思うのは私だけでしょうか?
江戸時代初期には戦国時代の生き残りで意志堅固な浪人もいたでしょうが、江戸中期になると経済成長が止まってしまったので食い詰めた長期失業者を意味するようになると浪々の身を現す浪人となり、幕末になると思想的立場で脱藩した武士も増えて来て水戸浪士や勤王の志士など再び前向きのおもむきで小説などでは表現されます。
(赤穂「義士」の表現は明治・大正になってから発達した講談で、浪人ではイメージが悪いので美化して広まった表現であって、事件のあった当時には「義士」と言っていたとは思えません)
明治の廃藩置県・廃刀令・家禄の公債化によって失業した元武士に対しては、不平士族と言うマイナス名称が付与されました。
このように見て行くと元々「浪人」と言う用例は(昔からもしかして少しくらいあったとしても)一般化していなかったように思えます。
今では、牢人は室町から江戸時代初期までの用法で、その後は浪人になったとわざわざ時代区分までされて解説されていますが・・最近の時代小説はそのように書き分けていると言うだけで、室町時代までの文書の引用もなく・・根拠不明です。
私は法律家ですので、原文らしきものの引用がない説明だけでは落ち着かない性質です。
そもそも、江戸時代に失業した武士と違い戦国時代までの武士は地盤を持った自営業でもあった(足軽とはそこが違います)ので、武士の方が主君と言うより支持していた上位者を見限ってあっちについたりこっちについたりしていたものです。
地方豪族はこうした国人層に支えられていたし、大名は小豪族の多数支持で成り立っていました。
最近上杉家重臣の直江某の物語がテレビ放映されて有名になっているので(私は見ていませんが・・・)多くの方がご存知と思いますが、武士と言えばそれぞれが大小の区別があっても自分の領地・地盤を持っているのが当時の仕組みです。
ですから地元に根付いた武士の支持を失って失業・落ちぶれるのは大名小名クラスであって、武士自体は自分の直接の耕地・耕作者・地盤を持っていた・・半農半士でしたのでどこかの家人をやめて・・出仕をしないで帰っても生活に困ることはなかったのです。
源平の合戦に参加して負けた源氏や平家自身は落ちて行くところがなくなりますが、それぞれに参加していた一段下のクラス鎌田正家などは、国許に帰ればそれぞれ安定した地盤を持っていたことを見れば明らかです。
サラリーマン化したのは、戦国末期に先祖伝来の地盤を持たないでイキナリ出世した武士・・傭兵のごとく戦闘専門化した武士に限られたでしょう。
戦国中期頃までは、普通は自分の一定の地盤を基に配下・一定武力を持って参加していたのをやめるだけですから、失業してウロウロしていたと見るのは間違いですし、この頃は仕官の口を求めて(地盤を離れて)浪々して諸国を歩く牢人などは本来存在していません・・地盤を追われてしまうのは限られた場合だけ・・例外現象だったでしょう。
職を求めるようになったのは、伝来の地盤を離れて武士がサラリーマン化した後の現象と見るべきでしょうから、浪人以前に諸国をウロウロする種類の人材が仮に存在していたとしてもごく少数でしかなく、社会現象とまでは行かなかったように思われます。
古くは山中鹿之介、戦国末期では長宗我部・真田幸村のような根拠地を追われた元武将や腕一本で世間を渡り歩く後藤又兵衛・塙団衛門などいわゆる豪傑などがいたことは確かですが・・彼らを当時世間で牢人と言っていたかは疑問です。
信州の牢人真田幸村などの表現・・名乗りを聞いたことがありません。
ただし、今日タマタマ宗門改め関係のデータを見ていたら、「牢人」と言う単語が出てきました。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hozonpage1.htmの日本の戸籍制度――江戸時代からの引用です。

   寛永16年〔1639年〕の大阪の菊屋町の「宗門改帳」の例(以下省略)
  一 此以前ヨリ切々被仰付候吉利支丹宗旨御改之儀、毎年町中五人組
   借家之者共候致吟味油断不仕候事
  一 吉利支丹宗旨之者ニ家をかし候者ハ、家主たとい宗門にて無御座候
   ても御成敗、両となりハ闕所ニ可被仰付候、堅御触之上は油断ニ在間
   敷候事
  一 他所より参家買者并借屋かりニ参候もの町中立合宗旨改寺請を立たせ
   置可申候事付、牢人に宿かし候儀、大坂惣年寄印形指上切紙不申請かし候 
   ハ、五人与共ニ曲事ニ可被仰付候

1639年の宗門改めのお触れの中に「牢人に宿かし候儀」=「牢人」に宿を貸す場合の掟が書かれています。
牢人に対しては、宿を貸すだけでも惣年寄の承諾書を要求していて厳しく制限していたことが分ります。
この実例によれば牢人の呼称は、この頃までには実在していたことになります。
牢人は家を借りるところか、一晩の宿さえ簡単に借りられない仕組みですから、「どうすりやいいの!』となります。
この頃には、既に就職難の時代ですから、戦闘能力の高い武士が職を失いウロウロしているのは危険きわまりない・・・政権側では牙を持ったオオカミがウロウロしているように危険視していたのです。
失業武士に対する厳しい政策が、慶安4年(1651年)由井正雪の乱を引き起こしたので、牢人が農民等に転向して行って次第に減って行ったこともあって、幕府は藩の取り潰しを緩めるとともに宥和政策に変化して行くのです。
それにしても何故「牢」などと言う漢字が当時用いられたのか(私の国語力では)今のところ理解不能です。

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