寄留とは?

これまで戸籍制度・本籍との関連で寄留と言う用語を(特に説明なしに)何回も書いてきましたが、ここから寄留制度の始まりから、現在の住民基本台帳制度まで書いて行きます。
江戸時代から明治の初めにかけては、持ち家を持たないで出先で現にいる場所(安定した生活実体がない人)で登録する現在の住民登録制のような仕組みがなかったし、また就職先もないのに郷里から放出されたものにとっては、居住先も安定しなかったので郷里にいなくなった人を登録から消してしまうか、郷里に登録したまま維持するかの二者択一しかなかったと言えます。
江戸に流入した人のいる場所は、言わば仮の住まいであって、現行民法で言う住所(生活の本拠)と言う観念すらなかったように思われます。
住所観念については、09/21/02「住所とは? 1」以下のコラムで既に紹介していますし、最近ではFebruary 19, 2011「本籍2(寄留の対2)」以下のコラムでその法制度の歴史を紹介しましたが、いわゆる生活の本拠であって、仮住まいではありません。
江戸時代に田舎から江戸に出て来た人の多くは、どこかへの住み込み奉公が原則で住まいとして自前のものがなく安定したものではなかったのです。
ましてや安定した奉公先から解雇されてその日暮らしになった者にとっては、長屋住まいと言っても不安定そのものだったでしょう。
当時は通勤制度がなかったので、どこかに安定した職のある人は住み込みが原則で家賃を自分で払う長屋住まいではなかったので、言わば今の契約社員や日雇い人足みたいな不安定職業の人の住むところが長屋でした。
これは浮浪者に限らず地方から江戸詰めになって、江戸屋敷で長屋住まいをしていたレッキとした武士も同じ意識・・自分の本来の住所は国元にある意識だったはずです。
現在でも人の居場所(一定期間以上過ごす場所)には、民法上(明治29年成立)住所と居所の2種類がありますが、私の学生時代には下宿屋に寄留していると言う言葉がまだ使われていました。
 民法

 (住所)
 第二十二条  各人の生活の本拠をその者の住所とする。
 (居所)
 第二十三条  住所が知れない場合には、居所を住所とみなす。

民法の条文で言えば、当時の下宿屋への寄留とは「居所」に似たような意識でしょう。
住所がどこにあるのかを旧民法では届け出を基準に決める形式主義であったと理解されていることと、現行民法では客観主義になっていることなどをFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に少し書きました。
届け出だけの形式で決めるのではないとしても主観(意識)だけで決めるのではない・主観客観総合して「生活の本拠」か否かを決めるものです。
意識はどうであれ、下宿屋や学生寮での生活はレッキとした住所であって「居所」ではないのですが、これは後に選挙権の行使場所について昭和20年代に大問題になって最高裁で決着がついていますので後に紹介します。
旧民法(明治23年成立)の条文をFebruary 24, 2011「戸籍と住所の分離4」のコラムで紹介しましたが、旧民法ですでに現行条文同様の住所概念が出ていますので、同時にこの対としての居所概念も出ていたように思われます。(居所の条文自体を入手していないのでここは推測です)
法・学問の世界では明治20年代頃からこのように住所とまで言えない程度の住まいの場合、寄留ではなく、居所と言うようになっていた筈ですが、日常用語としての普及は進まなかったようです。
現行民法施行後約100年以上も経過している現在でも、まだ居所などと言う表現をしている人は滅多にいないでしょう。
「寄留」と言う漢字の意味からすれば、胞子などが宿主となる樹木に寄り付いてそこで根をはやしているイメージですが、郷里を離れて江戸に出た人の住まいは浮浪者=胞子みたいなもので住まいとして安定性の欠けた状態と理解されていてこれを表現したものだったのでしょう。
それでも寄留と言うからには一晩や二晩宿に泊まるだけではなしに、ある程度根を下ろした状態を意味していた筈です。
ここ3〜40年前から下宿屋がなくなったせいか、寄留と言う言葉を使う人がなくなってしまったので「寄留地」は今になるとよく分らない言葉ですが、ヤフー辞典によれば
「文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉六・一〇「我日本は文明の生国に非ずして、其寄留地と云ふ可きのみ」
と既に使われているようですから、遅くとも江戸の終わりから明治始め頃には一般的用語だったようです。
寄留者とは浮浪していた人(胞子)が寄生する場所を得て、ある程度根を下ろして定住するようになった状態を意味していたように推定出来ます。

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