農家の多くは元々最小単位の核家族で漸く生活していましたから、これ以上構成員を減らせないとすれば、周辺産業にあわせて生活水準を引き上げるには耕作面積の拡大でしか対応出来ないのですが、農家をやめる人がいないと自分の耕地を増やせないことから(・・この誘導をしなかった、出来なかったのは政治の失敗です)農業以外の生産性が上がるのに比例して農家の相対的窮乏化がいよいよ進んでししまいます。
戦後は機械化が進み農業生産性も少しづつ上がりましたが、それでも農家戸数を減らせないので規模拡大が出来ず、戦後の兼業・農家出稼ぎが広がりましたが、これは家族構成員をこれ以上減らせないことを前提にした・・・一人あたりの従事時間を減らして行く試みだったことになります。
農家の収入は(生産性が上がらない限り)明治維新前後を通じて増えないとしてもまわりで景気良く収入が増えていると、農家の人もラジオを聞いたり近代的な乗り物に乗ったり本を買ったりしなくてはなりません。
これは現在でも同じ原理ですから、農業生産性上昇が周辺産業に追いついていないにもかかわらず農家も周辺産業従事者並みに生活水準を引き上げて行くには、規模拡大か補助金注入しない限り窮乏化を防ぐ方法はありません。
高度成長期には自民党政権が資金注入続けていて、農家経済のかさ上げに努力して来たのです。
この注入が限界に来たのが昨今の経済情勢ですが、この解決・・補助金を減らして行くには農家人口を減らし一戸当たり規模拡大しかない筈です。
家の制度に戻しますと、家督相続人が明治民法で新たに得たものは何もなく範囲の広がった扶養義務だけ負荷されるのでは納得し難いので、戸主の居所指定権などの観念的指導権限を強化したのですが、東京大阪等に出て行った弟に対する居所指定権などと言っても実効性がなくお笑いです。
他方この扶養義務ですが、家の制度を論理的に説明するために何かあればその代わり故郷の実家で面倒見てくれると言う制度的保障・・観念強調だけですが、家を出た弟妹にとっても「江戸時代までの扶養2」 February 9, 2011 でも書きましたが、元々弟妹まで養いきれないから都会に押し出していたのですから、いざとなっても、長男が面倒見るほど経済力がないことを知っていましたので、お互いに茶番だと理解していたことになります。
家長と構成員どちらから見ても家の制度は意味のない制度で、すべての分野で家の制度は、実効性のない観念だけだったことになります。
今になると戦前の家の制度を過大に評価して如何にも悪い制度であったかのように思われていますが、実は思想的には親族・集落共同体崩壊の危機感に対する歯止め約としての観念的期待に過ぎず実体経済的裏付けがなかったことと、この次に書いて行く戸籍制度と整合させ維持するために自動的に構築しただけで、何らの実効性もない制度だったので、物の分かる人は家の制度に何の意味も見いだしていなかった筈です。
何かあっても親戚が面倒見てくれる訳ではないことが何十年も前から既に証明されているし、その結果親戚に相談しても解決してくれないので弁護士に相談来ているのですが、それでも親戚付き合いしておかないと何かの時に困ると言う潜在意識を吐露する人が多いものです。
これは古くは農業社会では核家族だけでは賄えない作業が多いことによる親族共同体での助け合いが必須だったことの遺伝子的記憶と明治民法制定直前頃に親族共同体崩壊が進んで行くことに対する保守層による危機感に応える意味で、観念だけでも家の制度を創設して保守反動層をなだめた思想教育の残滓に過ぎないでしょう。