扶養義務と家の制度1

貧農の多くは掘っ立て小屋生活でしたので元々核家族・最小単位だったことをFebruary 9, 2011「江戸時代までの扶養2」のコラムで紹介しましたが、前回書いたように扶養の範囲を一緒に住んでいない兄弟夫婦とその子まで広げた上で、彼らに対する戸主の扶養義務が法定されるとこれに見合う何らかの特権付与が必要になります。
明治になって一般庶民・貧農にまで創設された家制度・家父長制がこれに対応したものだったことになります。
政府としては国民管理の単位としてそれまでの地方有利力者を通じた間接統治から、家の単位を届けさせて直接管理しようとしたことが家単位戸籍制の始まりのようでもあったようです。
当時はまだ個人別の識別方法が思いつかなかったからです。
当初は家族単位で登録するしかなかったとしても、すぐにも血縁団体と関係ない世帯単位の寄留簿が整備されて行ったのですから、政府としては寄留簿が完成した時点で戸籍や家を通じた登録制度は不要だった筈です。
今でも政府は国民総背番号制の実施に意欲があり、人権団体が管理に反対している状態です。
ところが、直接管理のために始まった家を単位とする戸籍制度が、たまたま千年2千年単位で定着して来た農村の親族・集落共同体の崩壊過程に対する保守反動層に対する宥和策として構想されるのに適していたことから、家の制度が観念的に肥大して行くことになったのでしょう。
実際、家の大きなものを国家であると拡大して行き、天皇を全国民の親にあたると擬制して行く方式・・国民は赤子として表現されていました・・は国家統治としても優れたものでした。
王権神授説よりは現実的です。
現実的である分・・いざとなれば家父長が弟妹の面倒を見られない現実との整合性をどうするのかの問題が天皇家にも跳ね返ってきます。
実際これを逆用して困窮した国民に対して、ちょっとしたものを配って天皇からの特別な下賜品(おおみ心)であるとして有り難がらせる方式が採用されていました。
December 21, 2010 「核家族化の進行と大家族制創設 December 26, 2010」前後で書いて来ましたが、明治31年民法での扶養義務の法定は大家族性の基礎になるものとして構想されたことになります。
家の制度を強調し、ふるさとを離れた弟妹への帰属意識を強調する以上は、構成員が困った時に助けてくれる・・扶養義務がないのでは格好がつかないからです。
扶養義務がある以上は、義務者に単独相続の特権を付与し、他方扶養に見合う指導権・口出し権があるとする家父長制は論理一貫性があったでしょう。
しかし、都市化に連れて農業社会で妥当していた親族共同体意識の崩壊が始まって行く中で、これに棹さすための家制度の構築は実体的裏付けを伴わなかった点で無理があったように思えます。
実態から見ると長男または跡取りにとっては単独相続が法で決められたメリットを得ていると言っても、02/07/04「江戸時代の相続制度 7(農民)」で紹介したように、江戸時代には末子相続、姉家督相続・長子・婿養子相続など実情に応じた色々な形態の相続があったとしても、少子化の時代で原則単独相続であったことは家の制度創設以前から同じでした。
その他のコラムでも書きましたが、江戸時代中期から分割相続は「たわけ」=田を分けるとバカにされたように単独相続が普通でしたから(森鴎外の小説「阿部一族」もこれがテーマです)明治民法で単独相続が法定されても現状追認でしかなく長男にとって実際的メリットが増えた訳ではなかったのです。
都会に出た弟妹に対する扶養義務が強制され、この見返りに農家の経済力がアップしたなら釣り合いが取れますが、明治による開国近代化以降農業者の地位低下が進み窮乏化が進む一方だったのですから、農家構成員の機能縮小すべき時に逆に拡大を法で強制したことになります。
高度成長期には近代産業従事者と農家との所得格差拡大目立ちましたが、(現在中国の沿海部と内陸部との格差問題も同じです)高度成長期に限らず産業革命以降その他産業の生産性向上に農業が追いついていないので、その他産業従事者と同じ生活水準を維持しようとすれば、(武士が次第に窮乏化して行ったのと同じ原理で)規模が同じである限り農業収入の相対的低下・・窮乏化が進行する一方であったし、これからも同じでしょう。
今でもそうですが、早くから都会に出た弟妹一家の方が、近代化の恩恵を受けて豊かな暮らしをしていることが多いものです。
これは政治の責任と言うよりは、産業の発展不均衡によるもので、格差の発生自体は厳然たる事実になります。
どんな産業でもじり貧になれば従業員・構成員の減少で対応するのが普通ですが、(武士は使用人をどんどん減らして対応していました)が末端=貧農は、February 8, 2011「江戸時代までの扶養1」で書いたように、既に限界まで構成員を減らしている核家族でしたから、これ以上減らせなかったので、幕末には一揆が頻発していたのです。
幕末徳川政権の崩壊は、足下から頻発する一揆で揺らいでいたところに黒船による打撃を受けたことによるのです。
この窮乏下での開国・近代化ですから、貧しい農家はいよいよ困窮化を強めていたところに、地租改正による金納化・貨幣経済社会に投げ込まれて続々と小作人への転落が続いていたのです。
この辺のいきさつは、09/10/09「地租改正8(金納は農民救済目的?)」その他地租改正のコラムで連載しました。
家の制度は窮乏化で苦しんでいる農家の扶養家族を増やす逆ばり制度ですから、(極限まで苦しいと子を売り親を山に捨てるように周辺から切り捨てるのが本来の原理です)経済実態の進行に反する無理な制度だったことになります。
制度や習慣はその社会で必要があって定着するものですが、家の制度は経済的必要性がなかったことになります。

扶養義務法定の背景

明治以降居候・厄介をやめてムラから外に出て行っても行方不明扱い・・除籍せずに、飽くまで一家の構成員として相互扶助関係を法で強制するようになった背景を考えてみましょう。
明治政府が特別な人権思想で戸主の扶養義務を創設したものではあり得ないので、それなりの必要性があったことになります。
明治以降政府が富国強兵策・「生めよ増やせよ」政策をとる以上は、跡取り以外の人材に対して、失業して野たれ死にするのは本人の勝手だとする無責任な政府の姿勢では国民が子沢山政治に協力しません。
そこで、跡取り以外の郷里を出た国民に対する何らかの保障が必要になってきます。
子沢山政策を支えた背景としては、実体経済的には、江戸時代とは違い、男子には兵士や炭坑労働者・各種工場労働者等新規産業用の需要が多くあったし、女子にも製糸・繊維工場の工員等としての需要があった結果、跡取り以外の国民の受け入れ可能・需要が伸びたことが大きいのですが、近代産業の場合、一定周期の好不況の波があり、また労働者自身の傷病もあって、労働市場からの脱落が一定割合で発生します。
また女性の場合、一定割合の離婚も発生します。
江戸時代には離婚は稀ではなくむしろ頻繁・気楽に行われていたことをどこかに書いたことがありますが、これは1男一女で人手不足の時代であるからこそ可能だったのです。
(稲作農業は主として女性労働力で賄われていたので、働き者の女性の場合戻ってくれば引く手数多で、女性の方からの離婚要求が多く、男性は仕方なしに離縁状にサインするしかない状態が続いていたのです・・間引き社会では女性が不足気味に推移していたことも大きな原因だったでしょう)
ところが娘が2人も3人もいる時代になってもしもしょっ中離婚して帰ってくると、親元でも再就職・再婚先をそうは簡単に見つけられません。
農村同士の婚姻・離婚の場合には、これに対応する嫁不足もありますが、(例えば10%の確率で離婚があれば、10%の確率で再婚相手を探す需要も起きます)都会の嫁ぎ先から帰った娘に対応する農村での需要はあり得ません。
その上、都市労働の経験が中心ですと農家の働き手としての能力不足ですので、性質上都会での仕事・再婚を探すしかないのですが、郷里の跡取りにはそんな能力は原則としてありません。
私の子供の頃でも、都会に出たもの同士の結婚は郷里の人の口添えで(同郷同士の結婚)相手が決まることが多かったものです。
そこで明治以降「離婚はとんでもないこと」だとする意識教育が行われるようになって行き、出戻りとして蔑む風潮も生まれて(処女かどうかもその頃から発達した概念ですし、男性も離婚するような男は信用されないとする意識も生まれました)これがうまく定着したので、これらの意識が江戸時代からあったかのように今では誤解しているのです。
最近は離婚経験をタブー視する風潮が薄れましたが、これは、都会人は都会人同士自分で相手を捜すようになったことが大きいでしょう。
誰も世話してくれない点は初婚も再婚も同じ土俵になりました。
離婚の場合は意識教育・・締め付けで離婚率をある程度引き下げられるので何とかなりますが、景気の波によって失業したり一定率で発生する病気するのは個人の努力や意識教育だけではこれを減らすことが出来ません。
波の来る度に度に飢え死にしたり乞食になるのを、個人の責任として放置していたのでは社会が持ちません。
失業・解雇を個人レベルで見れば日頃の業績・勤務態度の悪い順に対象になるとすれば、日頃の仕事ぶりが重要・個人責任ですが、これを全体で観察すれば、仮に全員が同じくまじめに努力していても不況が来れば一定率で余剰人員が出るのは防げないので、全体としてはこの種の道徳教育によることは無理のある立論です。
病気も個人の健康管理が重要としても大量観察すれば、繊維系工場では肺結核が大量に発生するなど職業病も多くあり、個人の努力だけでは解決出来ないことが明らかです。
現在では、この受け皿として労災補償・失業保険などの社会保険、個人的には生命保険等で賄われて・・最後は生活保護があるのですが、当時はこうした受け皿がなかった(政府には力がなかった)ので、親元をその責任者にするしかなかったのです。
以上の次第で、明治民法の扶養義務法定は、ショックアブソーバーとして(何かあれば帰ってこいよ・・)の親元の受け入れ奨励・義務化が必須だった事によると思われます。
その見返りとして、それまで法定されていなかったものの事実上行われていた長男の家督相続制が法定されたのでしょうが、これは事実上のものを法律上の権利にしただけで、長男には新たな利益ではありません。
とは言え、大恐慌のように一斉に失業して帰郷しない限り・・偶発的に離婚その他で帰ってくる程度・失業して帰って来てもⅠ〜2ヶ月でまた出て行くような場合、一応の役割は果たせていたのです。
今でも義務かどうかは別として、都市近郊に親がいる場合、失業すると次の職が見つかるまで親の家に戻っている例をJanuary 31, 2011「都市住民内格差5」のコラムで紹介しました。
ちなみに居候と厄介の違いは、居候は長期間同居を意味していて厄介は短期・臨時の場合だったでしょう。

扶養4(恩恵から義務へ2)

 

江戸時代に話を戻しますと、親孝行の道徳があっても、親や兄(強者が)が弱者である子や弟妹や家督を譲った後の親の面倒を見るべき道徳・・扶養「義務」の思想がありませんでした。
いわゆる忠孝を強調する封建道徳は、弱者の義務のみあって対価関係に立つべき上位者の義務がなく、(弱者には権利がない)上位者には恩賞の観念があるのみです。
明治憲法制定時に森有礼が「臣民には分際のみあって権利などあるべくもない」と論陣を張ったことを、06/09/03「臣民と国民との違い2(臣民分際論)」で紹介しましたが、封建道徳では親が子を養うのは義務ではなく親の愛情発露に過ぎず、子は親から養育を受けるのは権利ではなく親の愛情の反射的利益に過ぎないとする思想です。
反射的利益論についても、03/22/06「権利と反射的利益2(公道の通行)」前後で公道利用利益に関して紹介しています。
ですから養いきれなくなれば森に捨てるのも姨捨山に捨てる(この辺は親孝行道徳と矛盾しますが、)のも、親・家の経営者の勝手と言うことになります。
対価関係のない義務だけでは成り立たない筈ですが、親や長男は何の義務もないのに子や弟には、孝行の服従義務だけ課して矛盾がなかったのは、親の機嫌を損ねて勘当されるとたちまち生存の危機ですし、親が死亡しても遺産相続出来ないし、相続し損ねた弟妹にとっても(まだ諦めきれない)何時スペアーとして呼び戻されるかの期待(権)があったからです。
封建道徳は静的な遺産相続ですべてが決まってしまうような社会を前提に成立した道徳です。
経済成長 の停止した・・静止した社会では、 Sep 14, 2010 「農業社会の遺産価値」以下で書いたように遺産しか継続収入の当てもない時代ですから、遺産を取得するためにどうすべきかの保身の道徳を強制し、強者は弱者の不服従を心配しなくとも良い・・寝首をかかれない安心出来るモラルでした。
親の生きている時には勘当されないように、あるいは遺産を取得するまではぺこぺこしている必要がありますが、遺産(あるいは家督)さえ取得してしまえば、親でも力がなくなれば山に捨てても良かったことになります。
姥捨ての習慣は親孝行の道徳に反していますので、道徳と言うよりは、強者の一方的論理に道徳の衣を都合の良いところだけ着せていた社会に過ぎないことになります。
封建道徳を簡単に言ってしまえば、弱者には忠孝に象徴される義務のみあって、強者は恩恵を施すのみであって何らの義務もない・・裏から言えば弱者は恩恵を期待する(権利がないのでいつもびくびくしている)だけで権利として何も要求出来ない社会だったことになります。
こういう思想社会では強者は恩恵を施すだけですから、義務を強制する(裏から言えば扶養を求める権利がある)ことになる扶養義務の観念は生まれる余地がなかったでしょう。
このような歴史から考えれば、明治民法が戸主の扶養「義務」(裏から言えば扶養を要求する権利)を明記したのは画期的な思想の転換であったことになりますが、これは憲法制定時の伊藤博文と森有礼との論争を経た結果生まれた観念だったことになります。
昨年末に紹介しましたが、期間が空いてしまったので、もう一度明治民法の条文を紹介しておきましょう。

民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
 第七百四十七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ

扶養3(恩恵から義務へ1)

国民の生活を維持する・・大きな意味の扶養ですが、この関係は国家と国民の関係でも江戸時代までの親子兄弟の関係同様で、国民多くの飢え死に発生を防ぐためにどこまで政府が努力するかは、ときの政権の勝手・・政権維持のために必要に迫られてやる施策に過ぎませんでした。
江戸時代には庶民があまり困窮すると一揆が起きましたし、現在でもエジプトや新興国で食料価格の上昇に対する暴動の発生を為政者は最も恐れていて、殆どの国では生活必需物資を市場価格よりも低くく押さえているのが現状です。
このために国際価格との差額分として政府資金をつぎ込んでいるのですが、今度のように国際価格が急激に高騰すると財政が持たないので、例えば5割アップするとその内1〜2割でも国内価格に転嫁し国内販売引き上げようとすると暴動が起きてしまいます。
今回の大規模集会・騒動を契機にエジプトその他周辺国では軒並み食料品価格の引き下げ・・政府の赤字抱え込みの発表に追い込まれています。
(デフレとインフレのテーマで1月24日以降にデフレの方が良い状態であると書いていましたが、その直後の1月29日から、エジプトの騒動が始まってみるとインフレの怖さ・・我が国のデフレは庶民にとって如何に有り難いことかが証明されたでしょう)
マスコミはムバラクの長期政権ばかり批判していますが、独裁がいくら続こうとも庶民の生活が危機に瀕しない限り暴動には発展しません。
庶民は貧しいのには慣れているので貧しいだけでも、暴動にはならず庶民の生活水準が従来より引き下げられると暴動になりやすいのです。
賃金の下方硬直性を何回も書いていますが、同じ原理です。
このことは、幾多の独裁国家の歴史を見れば明らかです。
生活基礎物資を税の投入で安くする諸外国の政治に比べると我が国は特異な政治システムで、例えば小麦など国際価格よりもかなり高く引き上げて国内流通させて国内農家を守ろうとする政治が何十年も続いています。
その他、米の輸入も皆同じです。
車社会での人間の米に該当するガソリンもかなり高い税を取って国際価格よりも割高で国内流通させています。
民主党政権になったばかりの時にガソリン税廃止が大きな政治テーマになったことは皆さんの記憶に新しいでしょう。
食料品その他基礎物資でこんな逆張り政治をしている・・むしろ物価が上がらないのは困ったものだと言うおかしな議論をしている国はどこにもないのではないでしょうか?
車社会のアメリカでもガソリン価格が低いことは周知のとおりですが、我が国だけが物価の上がらないことを悩む暇があるのは、底辺層の底上げが進んでいる豊かな国だから出来ることです。
世界中で日本だけがやれるし、物価下落を悩んでいて誰も不思議に思わない(私は1月26日以降書いたように異を唱えていますが・・・)のは、よほど庶民が豊かな良い国だとなります。
基礎的生活水準が豊かであることが、神戸大地震があっても誰一人略奪などに走らなかった理由の一つでしょう。
話を戻しますと諸外国におけるこれら基礎物資の人為的引き下げは、いずれも為政者の自己保身のためにやっているに過ぎず法的な義務ではありません。
国民に対して一定の文化的生活を保障する・・法的義務まで認めるようなことは我が国でも現憲法制定までありませんでした。
以下に憲法を紹介するように、我が国では有り難いことに国民と国家の関係も戦後はいわゆる生存権・・権利に昇格したので、暴動を起こさなくとも裁判で解決出来ます。
裁判で解決できるとなれば、政府は法を守らねばならないし、法の基準に違反していれば弁護士の活躍の場となります。
現在財政赤字もあって生活保護を出来るだけ厳しく運用したい政府(市町村)と受給側との攻防はデモや暴動で解決するのではなく、弁護士が代理請求することで、かなり解決出来ています。
我田引水の批判を受けそうですが、弁護士制度の充実が暴動や一揆を防ぐ有効なガス抜きスキームになっているのです。

憲法
  昭和21・11・3・公布
  昭和22・5・3・施行
第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

江戸時代までの扶養2

 

産業の中心が農業の場合、一家の労働力が増えてもその分の食料生産の増加もありません。
耕作地が一定の時代には、労働力が二倍に増えても収量は殆ど同じですから、経営効率としては家族構成員が少ないにこしたことがありません。
商店でも企業もこれ以上従業員を増やしても売上や生産が伸びないとなればそれ以上の従業員はいりません。
親夫婦の外に弟妹を養う余裕のない限界農家(・・庶民の大多数・・自分の親でさえ養いきれずに姥捨てをしていた時代です)の場合、跡を継いだ長男一家としては一家構成員が増えると消費者が増えるだけとなって死活問題です。
弟妹が外の世界で正規の職に就けようと就ける見込みなかろうと一定年齢に達したら家に残せなかったことが多かったでしょう。
ヘンデルとグレーテルの物語のように、子供が森で自活出来るかどうかが森に捨てる基準ではあり得ませんし、これは現在の企業にとって余剰労働力を解雇する場合、その労働者が次の職を探せるかどうか知ったことではないのと同じです。
力のある大手企業の場合、関連企業への出向制度などがありますが、これは江戸時代当時でもどこか養子口を探しあるいは奉公先を探してくれる能力のある人がいたのと同じです。
ですから、江戸時代まで兄弟姉妹とその一家が同居しているような大家族制が(一部裕福な家庭を除けば)庶民一般で現実に存在していたものではありません。
江戸時代に郷里を出たものの多くは、生活出来る見通しがあって押し出されたのではなく、兄(跡取り)が弟妹を食わせられないから押し出しているのですから、(彼らが家を出ればたちまちに食い詰めることが目に見えていながら(一定の資金を渡したでしょうが・・)郷里から追い出す以上は・・・江戸からの追放刑と同じ効果で、知らない世界でロクなことをしない前提となります。
仕事もないのに郷里を出て行った弟妹が犯罪を犯しても、連座責任をとらないで済ますためには、除籍してしまい無宿者にするしかなかった時代です。
(出先で死亡しても引き取り義務を免れるためにと説明されていますが、実は連座責任を免れる目的とは書けないので、上記のようにわざわざ無宿者扱い・・人別帳から消していたのです)
December 23, 2010「親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)」その他でこれまで繰り返し書いていますが、いざと言う時にはいつでも跡継ぎとして声がかかるように盆暮れに毎回帰って来ているのが普通でしたが、(そのコラムで書きましたが、その頃特に信仰心があった訳ではりません)引き取り義務その他後難(何かあった場合連座責任制などあったからです)を恐れて、公式には行方不明として檀家寺の人別帳から抹消しておく習いでした。
出先で彼らが犯罪を犯しても無関係どころか、死亡しても引き取りたくない・・死者の弔いは当時としては最低の義務(だった筈)ですが、それさえもしたくないと言うくらいですから、跡を継いだ長男が外へ出て行った多くの弟妹どころかその家族全員(明治以降は弟妹も出先で結婚する時代になりました)の生活の面倒を見るようなことは、論理的に無理があり、例外中の例外で勿論義務ではありませんでした。
上記実態から見ると、江戸時代には跡継ぎ・・家計の主宰者は、家(ここでは具体的な建物の意味です)を出て行った彼らの生活の面倒を見るべきとする思想もなかったし、勿論扶養の義務を認める制度まで作るようなことはあり得なかったことになります。
この時代には、扶養は出来る限度ですれば良い・・どこまで面倒を見るかは親や子の情愛に委ねていて、家族に対する扶養「義務」などはまるで予定していなかったことになります。

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