明治4年の2つの太政官布告で戸籍簿と寄留簿の二本立てで始まった国民管理制度の内、時代の流れに合致していた寄留簿の方が発達して肥大化して行き、戸籍簿の方は逆説的ですが肥大化し過ぎた結果空洞化が進み、その結果が明治31年式戸籍だったことになります。
前回紹介した本では「社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなった・・」と書かれていますが、私が21日まで推測を逞しくして書いて来たように、律令制下で農地配給のために生まれた戸籍制度は国民の頻繁な移動に適応出来ない制度であったのに、明治維新以降近代化が進み住所移動が激しくなったことから、制度に内包する無理が生じて来たからです。
農民が数年あるいは五年に一回移住していたのでは耕地の前提たる土造りも出来ないので農民にとっては定住が原則です。
しょっ中移動していたのでは食べて行けないので移動する人は農民以外の商人等稀な事例(商人も安定して店を構えないと信用されない社会)になりますが、近代化進行=経済活動の活発化・農業から商工業社会への変化ですから、人の移動が激しくなる一方・・未だに地方から大都会への移動が現在進行中です。
戸籍の空洞化が何時頃から進み始めて何時完成したかですが、大正3年成立の寄留法では既に住所寄留と言う区分が出来ていることから見れば、そのずっと前からこうした運用に変わっていたことになります。
前回紹介した本の意見によれば、明治31年式戸籍法(明治31年民法施行による家の制度にあわせて改正されたものです)では、住所記載がそぎ落とされて身分登録だけに純化していますので、この時点までに、戸籍と住所が切り離されている運用・・寄留届けが一般化し・寄留簿が事実上住民登録簿に変わっていたことが分ります。
ではそのどのくらい前から戸籍が(現住所を現さなくなって)空洞化していたかと言う疑問ですが、前回紹介した本では明治19年式戸籍では、まだ戸籍には住所を記載していて、本籍記載欄がなかったのですから、大分普及していたとしてもまだまだ戸籍制度に反映するまでは行ってなかったのでしょう。
明治20年代には普通になっていたとすれば、いわゆる旧民法成立(明治23年)の前後ではどうだったでしょう?
旧民法は、保守反動層の猛反対で施行されないうちに、明治25年に施行延期決議が議決されて明治29年に新たな(現行)民法が成立してしまうのですが、この時に新たになったのは主として親族相続編でした。
19日にも少し書きましたが「住所」は、フランス法やドイツ、スイス法などの学説を参照して作ったものであって、我が国の保守革新の抗争・・醇風美俗論争とは関係がありませんでした。
ただし隣国との往来の盛んな欧州諸国では、住所概念は対外的な裁判管轄を決める・・主に国際私法上必要な概念であって、民法と言う基本法に書くものではなかったようですから、我が国だけが突如民法の、しかも総則に書いたのは戸籍関係で、特に住所の意味が重要になっていた事情があったからかもしれません。
後にも書きますが、民法の実質主義によりながらも選挙権では選挙法で、税は税法でそれぞれの住所概念が必要・・民法で一律に決めるのではなく、と言うのが現在の通説のようです。
最近では武富士創業者の息子の住所が香港にあったのか日本にあるのかに関する最高裁の判断によって、2000億円前後の税還付が決まったことが報道されています。
民法の総則で住所一般の原則を書いたのは、古代から定住民族の我が国では人の定義として住所による特定の意義が重視されていて、これに基づき戸籍を整備したものの、戸籍の記載場所と本当に住んでいる場所とが乖離し始めたので住所=本籍とする形式理解ではすまなくなりました。
そこで「住所とは何か」を決める必要性の意識が高まっていたので、民法に定義規定が置かれたと思われます。
壬申戸籍では戸籍と寄留しかなく住所概念がなかったのですが、戸籍をそのままにした移住が多くなると住所とは何かが問題になって来るのが必然で、戸籍記載場所と(本来の)住所・寄留(居所)の3カ所の概念が出来て来たのです。