傍系の子供まで際限なく書き込んで行く戸籍編成方法では、傍系が将来分家して行かない限り大変なことになって行きます。
江戸時代までは傍系(外に流れて行った弟らが)が子孫を増やして行くことは滅多になかったので、明治4年(壬申戸籍制度を命じた太政官布告は壬申の前年・4年でした)頃には、(江戸時代までの経験の上に将来を見通して考えていたのでしょうが、)その辺は想定外だったかも知れません。
分家するには家産の分与が前提となりますが、(食うや食わずの庶民にまで家の制度を強制したので)分家出来るような財産家は滅多にいないので、芋づる式に傍系がぶら下がる一方になっていました。
しかも明治4年当時までの産業の大多数が農業でしたので無意識に定住を前提としていて、その後に経済活動の活発化によって戸籍記載場所=住所移動が頻繁に起こってくることも想定していなかったのではないでしょうか?
このように考えて行くと、そもそも律令制導入とともに入って来た戸籍制度は口分田・・農地の配給の前提として必要な制度であったことが想起されます。
配給を受ける農民が他所へ移動することは前提になっていないし、耕地面積が一定としたならば、一家の人口が際限なく増えることも前提になっていません。
口分田・耕地配給制度は新田開発がない限り・・今で言えば分家して行かない限り無理な制度でした。
これが新田開墾に連れて私有地が増えて行き、班田収受法が崩壊して行った原因でした。
明治の戸籍制度は、耕地配給と関連がなくなっているので、いくら構成員が増えても、移動があっても良いと思ったかもしれませんが、DNAは争えないと言うか、元々移動前提の制度ではなかったので戸籍制度が重たくなり過ぎて、移動が激しくなるとついて行けなくなったと言えます。
戸籍制度は、戸籍=住所であり、それ以外は寄留地とする2段階制度で始まりましたが、戸籍と住所の分離が始まったのです。
浮浪するためではなく正規職業のための住所異動が頻繁になり、しかも戸籍簿が大部になって行くに連れて、住所移転=転籍の度に戸籍を書き換えるのは実務上困難・・現場から悲鳴が聞こえそうですから、転出先を「寄留として届けてくれないか」と言う窓口指導が多くなったように思われます。
寄留届けなら戸籍全部の移動ではなく、移動・寄留者の名簿登録だけですみますので、元の戸籍役場から送ってもらう資料もその関係者だけの一部証明で済みます。
こうして、人が移動しても戸籍の場所を滅多に動かさない習慣が根付いて行き、元は現住所で編成していた戸籍簿が、その後の住所・生活の本拠移転には対応しなくなった・・・戸籍記載場所と住所(寄留と称し)とは別にする運用・・制度が定着し始めたものと思われます。
何回も書いていますが、明治初年の戸籍作成当初は現住所と戸籍記載場所が一致していたのでしょうが、本当は住所=戸籍移転であるのに転籍手続きが大変なために届出上は学生の下宿先のような「寄留場所」とする便宜的届出習慣が一般化してきました。
その結果、カラになった戸籍記載場所と(実質的現住所)である寄留地と本来の仮住まいである寄留地の三元化になって来て,戸籍のある場所を(下宿しているような寄留者でもないのに)本籍と言うようになったのでしょう。
寄留届け出は江戸時代までの無宿者の受け皿として始まったので、寄留者にとっては本来の籍のあるところ・・親元の戸籍記載場所を本来の籍=本籍として届けていたと思われますが、(この辺の推測は18日のブログ冒頭にも書きました)この場合には本籍には親兄弟がいる前提でした。
本籍地は、親元を離れた寄留者・・臨時出先にいるもののみが、使う用語だったのです。
ところが一家そっくり引っ越した「住所」の移動まで寄留届出で済ますようになると、戸籍記載場所には誰もいなくなります。
この運用が定着し始めた時点で戸籍簿記載場所と本来の寄留との中間概念である住所と言う熟語が生まれて来たのではないでしょうか?
・・寄留の中には本来の寄留と生活の本拠=住所であるが、方便として寄留としているものがあること=住所寄留が一般化して来たので、その定義として本来の寄留と区別するために前々回(19日)紹介したような「生活の本拠」となったように思えます。
そのような区分け・・住所の定義が何時頃から生まれたかの関心ですが、現行民法財産編は明治29年成立ですが、これまで民法典論争で紹介しているように、反対運動が強かったために一回も施行されずに終わったのですが、旧民法が1890年(明治23年)に国会を通過・公布されています。
この旧民法の条文に既に住所の定義が出ていたかを知りたいのですが、図書館に行って調査しないと旧民法の条文をネットでは見られません。
他方で、戸籍記載場所が、「何とかの郷宮ノ前誰それ」程度の表記時代には、少しくらい家屋敷が移動しても同じままで良かったでしょうから戸籍表記が地番表記に変わってから、問題が大きくなったものと思われます。
戸籍の規模が次第に(傍系に子供が生まれるなど)大きくなって行った時期と地番表記が進んだ時期・・近代化が緒について住所移動が盛んになって行った時期を総合すると明治15〜20年前後がその境目だったかなと言う直感で(データにあたれないので)書いています。
生活の本拠たる住所概念が確定するとこの定義によって寄留との区別は分りますが、本籍との関係は不明のままです。
元々本籍は寄留者のために親の住んでいるところを現した用語ですから、親の住所の定義が出来てしまえば、戸籍の記載場所=本籍自体存在意義がなくなる運命だったのです。
このように戸籍記載場所には実態がない・・「空」になると、却って本籍と言う単語が何か価値のある言葉のように一人歩きを始めた印象です。
ちょうど家の制度が構想され始めた時期とこれが一致したので、「空」である分よけいに何か有り難いような・・神社など我が国ではは、何にもない空間が有り難がられる傾向がありますが・・特別な観念になって行ったのではないでしょうか?
何か有り難いものがあるかと思って家の制度の本拠地である本籍に行ってみると、風吹きわたる草むらだったと言うことになります。