江戸時代に話を戻しますと、親孝行の道徳があっても、親や兄(強者が)が弱者である子や弟妹や家督を譲った後の親の面倒を見るべき道徳・・扶養「義務」の思想がありませんでした。
いわゆる忠孝を強調する封建道徳は、弱者の義務のみあって対価関係に立つべき上位者の義務がなく、(弱者には権利がない)上位者には恩賞の観念があるのみです。
明治憲法制定時に森有礼が「臣民には分際のみあって権利などあるべくもない」と論陣を張ったことを、06/09/03「臣民と国民との違い2(臣民分際論)」で紹介しましたが、封建道徳では親が子を養うのは義務ではなく親の愛情発露に過ぎず、子は親から養育を受けるのは権利ではなく親の愛情の反射的利益に過ぎないとする思想です。
反射的利益論についても、03/22/06「権利と反射的利益2(公道の通行)」前後で公道利用利益に関して紹介しています。
ですから養いきれなくなれば森に捨てるのも姨捨山に捨てる(この辺は親孝行道徳と矛盾しますが、)のも、親・家の経営者の勝手と言うことになります。
対価関係のない義務だけでは成り立たない筈ですが、親や長男は何の義務もないのに子や弟には、孝行の服従義務だけ課して矛盾がなかったのは、親の機嫌を損ねて勘当されるとたちまち生存の危機ですし、親が死亡しても遺産相続出来ないし、相続し損ねた弟妹にとっても(まだ諦めきれない)何時スペアーとして呼び戻されるかの期待(権)があったからです。
封建道徳は静的な遺産相続ですべてが決まってしまうような社会を前提に成立した道徳です。
経済成長 の停止した・・静止した社会では、 Sep 14, 2010 「農業社会の遺産価値」以下で書いたように遺産しか継続収入の当てもない時代ですから、遺産を取得するためにどうすべきかの保身の道徳を強制し、強者は弱者の不服従を心配しなくとも良い・・寝首をかかれない安心出来るモラルでした。
親の生きている時には勘当されないように、あるいは遺産を取得するまではぺこぺこしている必要がありますが、遺産(あるいは家督)さえ取得してしまえば、親でも力がなくなれば山に捨てても良かったことになります。
姥捨ての習慣は親孝行の道徳に反していますので、道徳と言うよりは、強者の一方的論理に道徳の衣を都合の良いところだけ着せていた社会に過ぎないことになります。
封建道徳を簡単に言ってしまえば、弱者には忠孝に象徴される義務のみあって、強者は恩恵を施すのみであって何らの義務もない・・裏から言えば弱者は恩恵を期待する(権利がないのでいつもびくびくしている)だけで権利として何も要求出来ない社会だったことになります。
こういう思想社会では強者は恩恵を施すだけですから、義務を強制する(裏から言えば扶養を求める権利がある)ことになる扶養義務の観念は生まれる余地がなかったでしょう。
このような歴史から考えれば、明治民法が戸主の扶養「義務」(裏から言えば扶養を要求する権利)を明記したのは画期的な思想の転換であったことになりますが、これは憲法制定時の伊藤博文と森有礼との論争を経た結果生まれた観念だったことになります。
昨年末に紹介しましたが、期間が空いてしまったので、もう一度明治民法の条文を紹介しておきましょう。
民法第四編(民法旧規定、明治31年法律第9号)
(戦後の改正前の規定)
第七百四十七条 戸主ハ其家族ニ対シテ扶養ノ義務ヲ負フ