産業の中心が農業の場合、一家の労働力が増えてもその分の食料生産の増加もありません。
耕作地が一定の時代には、労働力が二倍に増えても収量は殆ど同じですから、経営効率としては家族構成員が少ないにこしたことがありません。
商店でも企業もこれ以上従業員を増やしても売上や生産が伸びないとなればそれ以上の従業員はいりません。
親夫婦の外に弟妹を養う余裕のない限界農家(・・庶民の大多数・・自分の親でさえ養いきれずに姥捨てをしていた時代です)の場合、跡を継いだ長男一家としては一家構成員が増えると消費者が増えるだけとなって死活問題です。
弟妹が外の世界で正規の職に就けようと就ける見込みなかろうと一定年齢に達したら家に残せなかったことが多かったでしょう。
ヘンデルとグレーテルの物語のように、子供が森で自活出来るかどうかが森に捨てる基準ではあり得ませんし、これは現在の企業にとって余剰労働力を解雇する場合、その労働者が次の職を探せるかどうか知ったことではないのと同じです。
力のある大手企業の場合、関連企業への出向制度などがありますが、これは江戸時代当時でもどこか養子口を探しあるいは奉公先を探してくれる能力のある人がいたのと同じです。
ですから、江戸時代まで兄弟姉妹とその一家が同居しているような大家族制が(一部裕福な家庭を除けば)庶民一般で現実に存在していたものではありません。
江戸時代に郷里を出たものの多くは、生活出来る見通しがあって押し出されたのではなく、兄(跡取り)が弟妹を食わせられないから押し出しているのですから、(彼らが家を出ればたちまちに食い詰めることが目に見えていながら(一定の資金を渡したでしょうが・・)郷里から追い出す以上は・・・江戸からの追放刑と同じ効果で、知らない世界でロクなことをしない前提となります。
仕事もないのに郷里を出て行った弟妹が犯罪を犯しても、連座責任をとらないで済ますためには、除籍してしまい無宿者にするしかなかった時代です。
(出先で死亡しても引き取り義務を免れるためにと説明されていますが、実は連座責任を免れる目的とは書けないので、上記のようにわざわざ無宿者扱い・・人別帳から消していたのです)
December 23, 2010「親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)」その他でこれまで繰り返し書いていますが、いざと言う時にはいつでも跡継ぎとして声がかかるように盆暮れに毎回帰って来ているのが普通でしたが、(そのコラムで書きましたが、その頃特に信仰心があった訳ではりません)引き取り義務その他後難(何かあった場合連座責任制などあったからです)を恐れて、公式には行方不明として檀家寺の人別帳から抹消しておく習いでした。
出先で彼らが犯罪を犯しても無関係どころか、死亡しても引き取りたくない・・死者の弔いは当時としては最低の義務(だった筈)ですが、それさえもしたくないと言うくらいですから、跡を継いだ長男が外へ出て行った多くの弟妹どころかその家族全員(明治以降は弟妹も出先で結婚する時代になりました)の生活の面倒を見るようなことは、論理的に無理があり、例外中の例外で勿論義務ではありませんでした。
上記実態から見ると、江戸時代には跡継ぎ・・家計の主宰者は、家(ここでは具体的な建物の意味です)を出て行った彼らの生活の面倒を見るべきとする思想もなかったし、勿論扶養の義務を認める制度まで作るようなことはあり得なかったことになります。
この時代には、扶養は出来る限度ですれば良い・・どこまで面倒を見るかは親や子の情愛に委ねていて、家族に対する扶養「義務」などはまるで予定していなかったことになります。