明治民法では、戸主が(世襲)財産を一手に家督相続し家の財産を握る制度設計でしたので、そのセットとして(一手に握った収入で)当然一家の構成員を扶養する義務がついて来ます。
江戸時代にはそこまで法定する必要がなかったのは、政府が生めよ増やせよと奨励したのではなく、事実上一人っ子政策の時代ですから、余分に生まれた弟妹の面倒まで国が強制して面倒見るまでの必要がなかったからです。
外に出てしまって無宿者になっても政府に何の責任もない・・実家も政府も無宿者が死のうが生きてようが、お互い無責任に放置しておけば良い社会でした。
人間扱いしないと相手もその気になるので治安が乱れ易い(ただし、いつか故郷に呼び戻される希望を繋いでいたので、独身者が多い割に犯罪率が低かったことを、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」その他で書きました)ことと、衛生上死体を放置出来なかったことが主たる課題でした。
ただし、明治民法で創設した戸主・家長の構成員全員に対する扶養義務は、一家全員を養えるほどの資産を相続した場合にだけ合理性あるに過ぎません。
一家で養い切れない人数を生ませる子沢山奨励政策をして、養いきれない分を都市労働者として押し出す明治政府の政策の場合、遺産全部を一人で相続したからと言って、戸主は都市に出て行った弟妹が不景気その他の理由で一家全員を引き連れて帰って来たら、これを養える筈がないのです。
結局戸主の扶養義務と言っても、実際には自分と一緒に生活している核家族と老親に対する義務しか履行出来ないものだったことが分ります。
とは言え、明治政府によって国民は国の宝として、貴重な人的資源・労働力として複数以上の出産を奨励する(今もその延長的思考で少子化対策に精出していますが・・・)以上は、セーフテイーネットとしての扶養や相続問題を一家の好きなように放任しておけなくなります。
02/07/04「江戸時代の相続制度 7(農民)」で紹介したように、江戸時代には末子相続、姉家督相続・長子・婿養子相続など実情に応じた色々な形態の相続があったのですが、一人っ子を原則にする社会であったからこそ、数少ない例外事象では実情に応じた相続が円満に行われて来たとも言えます。
子沢山を公的に奨励する以上は、あるいはこれが原則的家族構成になってくると、家族ごとの自主的解決に委ねていると相続争い・主導権争いが頻繁に起きるのは必然です。