12/20/03

監獄則とは?

少し寄り道ですが、監獄法によって廃止された監獄則とはどういうものかについて、紹介しながら、江戸時代から明治にかけての、行刑制度の流れを簡単に見ておきましょう。
明治政府は,牢,人足寄場,徒場といった旧幕制下の施設を引き継ぎながら、既決である徒場と未決である囚獄を分化させました。
未決囚の一時的拘禁のための監倉を各裁判所に設置し、検事の所管としていたのですが,欧諸国の近代法制を導入するために、香港等でのイギリス植民地の行刑を参考にして、出来上がったものが、明治5年の監獄則并図式です。
これは罪人の拘束と懲戒を目的としつつ,残虐と苦痛ではなく仁愛のもとに運営されるべきものであって、幕末期以降の西洋にならった行刑改革論の実現とされるものでした。
ところが以前のコラムで書いたように、お金がかかるので、翌6年に財政事情等で施行を停止されてしまったのです。
それでも、明治7年には徒場を懲役場に変えるなどして、日本最初の近代的様式監獄である鍛冶橋監獄を設置し、明治12年には、政情不安を背景に内務省直轄の集治監が小菅と宮城に建てられました。
次に、刑法と治罪法(明13)制定にあわせて、フランス行刑にならった監獄則が明治14年に出来、この監獄則の下では、留置場,監倉,懲治場,拘留場,懲役場,集治監が監獄とされました。
その後、日本全体の法制度が、ドイツ法系に転換したのにならって、明治22年になって、ドイツ監獄学に範をとって出来上がったのが、このコラム表題の監獄則です。
ですから明治14年の監獄則と明治22年の監獄則とは、同じ名称ですが、立法の骨格が違う別物といえるでしょう。
22年監獄則によって、知事等の管理する地方監獄,拘置監,留置場,懲治場と内務省管理の集治監に整理され,監獄則施行細則,監獄執務要領で補われながら監獄運営の実質的改革が進められることになったのです。
明治32年には、領事裁判権の撤廃の関係で、外国人処遇標準が規定され,さらに監獄費の全額国庫負担,全監獄の知事や内務省から司法省直轄への改正を経て、監獄法(明41)が制定・施行されるまでの監獄に関する基本法となっていたのです。
このように紆余曲折がありましたが、我国の行刑システムは、明治41年の監獄法に至って安定し、治安を担う内務省から司法行政の管轄となって、以来今日まで(法務省矯正局管轄)存続しているのです。


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